ふくもと まさお著『ドイツ・低線量被爆から28年−チェルノブイリはおわっていない』を読んで

さざえ / 2014年8月3日

私は、この本に出会って、一言でいえば、「救われた!」思いだった。日本を外から眺めている者にとって、恒例となった反原発デモへの参加や、福島の被災者への僅かなカンパだけでは「靴の上から足を掻いている」ようで気持ちがおさまらない。

またフクシマに関するサイトやブログまたは本/雑誌類を通じてさまざまな情報を得ても、ただただ気が滅入るのみ。そこに書かれていることはまさに「そのとおり」なのだ。救いのない日本の政治状況、それに絡む経済界やマスメディアの堕落に加え、選挙民の無気力などが「これでもか、これでもか」と迫ってくる。気がつくと、いつしか私は暗い出口のないアナに落ちている。

ふくもと氏はドイツ語のAngstとFurchtという二つの言葉を使って、今私が落ち込んでいる心理状態を次のように説明する。それを、ここで引用させてもらうと、両方とも「心配、不安」を示すドイツ語で、前者「Angst」は不安が漠然として羅針盤を失ったように彷徨い、どうしていいかわからない状態。私の例だが、この書名タイトルの低線量って何だ、高線量とは? この二つの言葉の意味がはっきりすると、今まで訳も分からず漠然と怖がっていた放射線も、それに関する知識が増え、放射線のリスクが具体化されて不安の実態が見えるようになる。そうなると、どうすればいいのか自分で判断できるようになり、不安な気持ちが安定してくるのではないかとふくもと氏は「Furcht」を説明している。

ところで、私はアナから抜け出せたかというと、大変こころもとない。

チェルノブイリ事故以後、ドイツでなりふり構わず生きてきた外国人の自分に、汚染されていないミルクを求めて買い回る母親たちの姿を見ても、”おひとりサマ”の自分には「アー大変だな!」という思いはすれども、それ以上の突き詰めた感情は起きなかった。しかしフクシマ事故以来の今日、自分が歳を重ねてきたせいか、日本で起きた原発事故だからか、私にはとても辛い。しかしこの辛さは、今まで心の奥深く隠してきた想いがふくもと氏の本との出会いで吹き出し、なぜか胸の内が軽くなったようだ。これもFurcht状態に入ったせいか。

著者ふくもと氏は、1985年に渡独。現在はフリージャーナリスト、ライター。ドイツ・ベルリン在住。

ドイツがチェルノブイリ原発事故によって汚染されていたことは、日本にあまり知られていないと、ふくもと氏は書いている。ドイツの放射能汚染は、日本のそれと比べると、かなり低い。にもかかわらず事故28年後の今日でも健康被害が起きている。チェルノブイリ原発事故後に、ドイツでは国や自治体がどう対応し、市民の反応はどうだったかに著者は迫る。

チェルノブイリで起こった原発事故は、ヨーロッパ大陸に大きな影響を与えた。放射性物質を含んだ雲が強い風に乗って西に向かい、ドイツの南部上空に達し雨が降った。黒い雲に含まれていた放射性物質が地上に落下する。ドイツ南部のバイエルン州が最も汚染された。原発事故2日後の夕方、ソ連の国営タス通信がチェルノブイリで原発事故があったと配信した。その数日後、西ドイツのテレビニュースで、ソ連の原子力発電所で事故があったことが報道された。しかし、事故がどの程度のものか全くわからず、市民の不安は高まるばかりだった。事故が報道されても詳しい情報が伝えられないので、社会全体がパニックに近い状態に陥った。

西ドイツ政府の放射線防護委員会は5月2日、事故による放射線量は自然放射線量に比べ低いので、健康被害が起こる心配はないと発表していた。当時はまだ、放射能汚染の上限を規定する規制値がなく、チェルノブイリ事故の実態はわからず、正確な情報がないまま政府はさまざまな勧告を出していた。ドイツは地方分権の国。州と自治体が独自に指標値を規定したり、いろいろな勧告を出したりしていたが、こうした対応の違いはむしろ逆効果をもたらす。市民は混乱するばかりだった。一方でメディアがテレビや新聞でさまざまな報道をし、それが市民をより不安に、感情的にさせていった。小さな子供を持つ親などの間には、パニック状態になって外国に避難した人もいた。

こうした不安と混乱の中で当時の西ドイツ市民は、国が情報を隠蔽しているのではないかと思うようになり、市民自らが食品の放射能汚染を測定しようとする動きが国中に広がっていった。その中心になったのは、子育て中の母親たちと学生時代、物理学などを専攻したインテリ層だった。

ところで、西ドイツの食品生産者は放射能汚染にどう対応していたのか。ふくもと氏は、西ドイツ最大の農業団体である農民連盟(DBV)で当時汚染対策の責任者だった人物から、以下の話を聞く。「まず数種の農産物の出荷を停止させた。そして政府主要機関に次のような要求をした。『我々は、一部の農産物の出荷を一時停止し廃棄する用意がある。その代りに生産者に対して補償をしてほしい』」。「農業団体の幹部らが、なぜ事故約一週間後の早い段階でこのような決定をしたのか」という問いには、「それは原発事故による風評被害を一番恐れていたから」という答えがあった。この生産者側の迅速な決断が国を動かした。生産者は自己申告の形で、栽培面積と廃棄処分証明さえ提示すれば、補償を申請することができることになったのだ。

しかし、数年後に汚染濃度も下がると、放射能汚染に敏感ではなくなる。チェルノブイリ原発事故により西ヨーロッパの中でも、最も汚染されてしまったドイツでは、自ら食品の放射能汚染測定に立ち上がった市民たちがいた。しかし、西ドイツには40か所もあった測定所のうち、現在もなお活動を続けているのは、ミュンヘン環境研究所1か所だけとなった。

しかし、チェルノブイリ原発事故から28年後になるドイツでは、いまだに放射能に汚染された食品が検出されている。今の日本と比べるとかなり低いが、それでも内部被曝により健康被害が起きている。

日本では今フクシマ原発事故の健康への影響について語る時、ウクライナとベラルーシでの健康影響がよく引き合いに出される。そして低線量被曝の影響が否定される傾向にあるが、ドイツでチェルノブイリ原発事故以後に起こっている健康被害は低線量被曝によるもので、今日でもダウン症、乳児死亡率、流産/死産、などの先天異常が増加していると、ふくもと氏は数々の例をあげる。ちなみに、それらに関するグラフ、表、写真、地図などの貴重な資料が、本書には全部で65点ほど収められている。

ドイツで確認された健康被害は、そのほとんどが原発事故後9か月前後に起こっている。ということは事故後初期の段階では通常半減期の短い放射性核種セシウム131によって汚染濃度が高くなる。その状況が過ぎると、次はセシウム137など半減期の長い放射性核種の影響が強くなり、僅かな量の放射線でも染色体異常をより助長し、ダウン症等発生の原因となる。

ふくもと氏は続ける。日本で蓄積された疫学データは、主に高線量で被曝した広島と長崎の原爆被爆者における影響を評価したものが中心になっている。しかし同じ被爆者の低線量レベルのリスクを示す例は概ね無視されてきた。低線量では健康影響は起こらない、という「教科書どおりの定説」がまかり通っている。この「定説」はどこから出たか。

ここで、ふくもと氏は驚くべき事実にふれる。広島・長崎における「人体実験」によって得られた放射線の影響。それに関するデータが米国にとって、原子力を「平和」利用する安全性の証明になった。そのためには低線量被曝によって健康影響があってはならず、広島と長崎の低線量被曝の影響は無視されてきた。この構図こそが原子力発電の安全を保障し原子力発電を促進してきたという。

チェルノブイリ原発事故は、東ドイツでも政治・社会において新しい転機をもたらしたというのがふくもと氏の意見だ。東ドイツ市民がチェルノブイリ事故について少しずつ知るにつれ、彼らの大半が社会主義国家体制に不信をいだくようになった。それが最終的にベルリンの壁崩壊、冷戦の終結へとむかったと、当時東ベルリンに住んでいたふくもと氏は確信している。

西ドイツでは、チェルノブイリ原発事故が原子力発電に対する市民の不信感を強めた。

ドイツで現在稼働中の原子力発電所は8基ある。住民の反対が強く、新しい原子炉の建設はもうできなくなった。2000年に脱原発を決めた。それが2010年に12年延長されたが、その直後に福島第一原子力発電所で大惨事が起こった。ドイツ市民の脳裏にチェルノブイリの悪夢がよみがえる。2週間後には25万人ものドイツ市民が原子力発電反対のデモにでた。政治がそれにすぐ反応し、メルケル首相は2010年の見直しを撤回し、改めて脱原発を政治決定した。チェルノブイリ原発事故から28年となる今日も、ドイツは依然として低線量で被曝している。

日本は福島第一原子力発電所で大惨事が起こって3年半になろうとしている。これから日本はどうなるのか。日本でも原発事故後に子供たちを守ろうとする親の会が各地にでき、日本全国で100以上の市民測定所も誕生している。これらの市民の活動は、日本が変わろうとしている一つの兆しだとふくもと氏は信じている。しかし「現在はまだ社会を変える種がまかれただけの状態で、その種がこれから芽を出して、大きく育っていくかどうかは、自分たち日本の市民の手に委ねられているのだ」と読者に呼びかけている。

 

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