ドイツのメディアが取り上げる福島の“強い人たち”

やま / 2014年3月16日

radio私の朝はラジオ放送で始まります。このごろはウクライナの状況がトップニュースですが、福島原発事故3周年を迎えた3月、ベルリンの朝は「立ち上がった南相馬市」という春の便りで始まりました。

南相馬の表明

「南相馬市の市民にとって、桜井勝延氏は英雄だ。日本政府にとっては妨害者」とナレーターは3分ほどのレポートを読み始めます。(以下、番組から抜粋)

市民から圧倒的な支持を受け、今年1月に桜井氏は再選された。インタビューに答える彼の胸にはNo Nukes(脱原発)とある赤いバッジが目立つ。
「私は学生時代、広島、長崎に行ってから、日本は核のない国にならなければいけないと思っていました」。原発事故後、地域の市町村長とともにネットワークを作り「人間と核エネルギーは共存できない」と表明した。
福島第一原発近辺の多くの市町村は無人のゴーストタウン。事故後、人口7万5千人の南相馬市も居住者が一時1万人に減った。今では大半の市民が故郷に戻り、人口は6万5千人になり、南相馬は“復活”した。それは、桜井市長が市民の信頼を得ているからだ。日本政府とは違い、市長は事実を隠さない。町役場には放射線量測定器が設置されていて、誰でもが放射線量をチェックできる。ちなみに今は毎時0.2~0.5マイクロシーベルトだ。
桜井市長には現実的な見通しがある。市のエネルギー需要を2020年までに60%、2030年までに100%再生可能なエネルギーで賄うという方針だ。汚染されて何も収穫できない地域に巨大な太陽光発電所、そして風力発電所を設けられれば雇用もまた増える。生産される電力は汚染されていない。市長は政府の援助に期待はしていない。逆に、被災地が必要とする人材、税金がオリンピック競技場のためにこれから福島から差し引かれていくだろうと桜井氏は怒る。

「この原発事故が人類にとって取り返しのつかない被害を与えている、ということを世界に警告するオリンピックにしてもらいたい」という市長の言葉にナレーターは「もし私が首相であれば」というフレーズを追加しました。いつか日本にもこのような政治家が首相に選ばれることをナレーターが期待したのでしょうか。

福島の動物を守るひと

テレビ番組「ヴェルトシュピーゲル」はARD(ドイツ公共第一放送)のニュース番組で、放送時間は毎週日曜日19:20~20:00です。50年以上続くこの番組はドイツ国外のニュースを放送しています。今回は5ヶ国からの取材があり、そのひとつが警戒区域冨岡町で一人で生きる50代の松村直登さんについての取材でした。(以下、番組から抜粋)

福島第一原発からわずか12kmしか離れていないゴーストタウン冨岡町。ここで測定される環境放射線量は毎時5それとも6マイクロシーベルトだろうか。人が住むには高すぎる。この警戒区域に3年前から生活する人がいる。農業を営む松村直登さんだ。
あの時、町の住民が一度に逃げた。松村さんも原発が爆発した直後に避難した。しかし被爆した松村さんを快く受け入れてくれる人はいなかった。身内からさえのけ者にされた松村さんは再び一人で冨岡に戻った。飼っていた牛が待っている故郷へ戻った。人のいない町には取り残された動物が飢えていた。
「東京で内部被爆検査をしました。結果はどうだと聞くと、お前のように放射線量が多かった者は今までいない、お前はチャンピオンだ。でも心配するな、健康に害があったと気付くのは早くとも30年後だと言われました」と悲しげに笑う。寄付金で餌を買い入れ60頭の牛の世話ができる。そのほか2羽のダチョウ、犬が3匹、猫数匹を飼っている。鎖につながれた、飢死寸前の犬を助け、その犬を「奇跡」と名づけた。
「昔はこの辺のものはみんな貧乏でした。制服なんかよく穴があいていて、母親たちは継ぎ当てしたものです。そして原発が建ったと同時にだれもが車を持つようになりました。1台だけではなく2台も3台も。それが普通でした。原発のない町では、ポンコツ車が走っているころでした。原発のおかげでここの生活は豊かになりました」と松村さんは語る。しかしあの頃の豊かな生活の面影はもうないと彼は言い足す。特に景色が美しいと言われた福島の太平洋沿岸。今、そこには黒いビニール袋に入った放射性物質に汚染された廃棄物が野外に積んである。水平線に至るまでゴミ袋は並べられている。
この地の人々はふるさとを大切にする。10世代、20世代、あるいはそれ以上長くこの地に住み、家を守ってきた。今は誰一人いない。松村さんは汚染されたふるさとに一人でも残ることに決めた。

フィリップ・アブレシュ記者がこの番組で捉えた松村さんは犠牲者役にとどまっていません。代々受け継がれてきたふるさとをお金にかえてしまった失敗を、ただ東電や政治に押し付けて終わるものではないと思ったのでしょう。汚染されたふるさとを命がけで守ることを自分から決め、原発の恐ろしさを次の世代のために伝えている松村さんがとても力強く見えました。

「福島の事故で私は変わった」

「福島事故がきっかけで、自分の人生を初めて自分の手に取った」とラジオルポに答えるのは西山裕子さんです。毎日の聴取者が200万人に上るというドイツラジオ放送DLFの番組を制作したのは『Japanレポート3.11』の著者であるユディット・ブランドナーさん。「裏切り者呼ばわりされた福島の原発避難民」という題で、福島を去った3家族の生活、個人の想いなどを描いた番組でした。(以下、番組から抜粋)

「昔は何をやるにも母や夫に聞いていました。決断力の無かった私が、福島事故後、福島を去ることを一人で決めました。そしてこの支援ネットワーク『みんなの手』を作ったのです。本当のことを言うと頼る夫がいなくても大丈夫なのです」と微笑む西山さんだが、この新しい役目にはまだ慣れていないという感じがする。
西山さんは3月18日に子供だけを連れて福島から東京に避難した。そして3ヵ月後、2011年6月に京都へ移住した。半年後12月に支援ネットワーク「みんなの手」を立ち上げた。被災者を支援し、京都と被災地を結ぶ活動も行っている。
「年齢は秘密です」と答える西山さんは30代だろう。彼女には2011年3月14日に2歳になった娘がいる。「福島の放射線量は相当高く、特に大気中は高レベルです。20ミリシーベルトが多いか少ないかは、私には判断できません。危険か、安全かという問題ではなく、親なら絶えず不安感を持つものです。親は小さな子供に『これに触るな、ここで遊ぶな』と注意をしなければなりません。子どもを伸び伸びと成長させる環境ではないと思い、自分の意思で福島から避難しました」。
西山さんは以前、数年アメリカに住んでいたことがあり、英語を教えたり、翻訳の仕事をしていたりした。その彼女が今、いつのまにか支援団体を興し、スポンサーを探し、京都に被災者のためのネットワークを作り上げた。この仕事をやり遂げたことで自信が持てた。
「お金はないんですが、何かすごく豊かですね。こころが、はい………」と強調する西山さん。京都に住み始めてからすべてが変わったと話す彼女に、何が一番変わったかと聞いた。自分に言い聞かせているかのように「何よりも、生活スタイルというよりは、何か自分の中の価値観が変わりました」と西山さんは答えた。「社会の多くの問題を他人に任せず、ひとりひとりが関心を持ち、みんなで責任を持って考えなければ、社会は変わらないと思います。次の世代が安心して生活できる社会を、みんなで考えて築いていかなければいけないと、これをきっかけに私は考えます」。

福島の問題は日本だけの問題ではない。悲しみに陥り他人を非難していくだけでは事故から何も学べない。これをきっかけに社会を変えていこうと決めた西山さんの言葉を聞き「母は強し」という言葉が思い浮かびました。

 

関連サイト
http://www.daserste.de/information/politik-weltgeschehen/weltspiegel/sendung/br/japan-tierretter-fukushima-100.html
http://www.minnanote.com/

 

 

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