シェーナウの奇跡、反原発の市民運動から生まれたエコ電力供給会社 2)

永井 潤子 / 2013年5月19日

シェーナウの町議会が、これまで町への電力供給の権利を独占してきたラインフェルデン電力供給会社(KWR)の金銭的に有利な申し出を受け入れ、KWRとの再契約を前倒しで結ぶことを決定したのは1991年7月8日のことだった。市民運動側は今後20年間もKWRの独占体制が続くことに猛反発し、ただちにこの決定に異議を唱え、「町議会の決定を無効にするための住民投票を行うよう」要求した。彼らはすでに「自分たちで電力会社をつくり、KWRから電力網を買い取る」準備を始めていたが、この住民投票は、民主的な手続きに従って目標を実現するための長い、困難な闘いの始まりに過ぎなかった。

スラーデックさんたちは札束をちらつかせるKWR側の「冷酷な金の力」に対して「人間的な心」を強調して住民投票に参加するよう人々に呼びかけた。ロックグループが結成され、ヴォーカリストが「住民投票ではJa(賛成)と書こう」と歌い、仲間のパン屋さんはJaと書かれたハート形の大きなパンを1000個も焼いて人々に配った。人口約2500人の町での話である。その効果があってか同年10月27日に行なわれた住民投票では賛成55.7%で市民運動側が勝利をおさめた。

これによってKWR との前倒し契約は阻止され、次の具体的目標が「契約更新までの4年の間に環境に優しい電力会社を自分たちの力でつくること」になった。しかし、市民たちが電力会社をつくるなどということは前代未聞の試みで、会社設立の法律的条件を整えるだけでも大変だった。市民運動側は何度も「電力セミナー」を開き、州の政治家たちを議論の場に招いて法律の改正を強く訴えるとともに関連部門の専門家、学者、環境保護運動家たちを全国から招いて、どうしたら計画を実現できるか知恵を絞った。

このころのシェーナウの市民運動について、ハンブルクのある気象学者は「彼らは地に足の着いた現実的な理想主義者だった」と高く評価した。また、ある地元の作家は「賢明で粘り強い彼らの運動は必ず成功するだろう」と、無力感に陥いることもあった人々を勇気づけた。「電力セミナー」などでの議論の積み重ねを基に、再生可能エネルギーやコージェネレーション(熱電併合システム)の促進、電力の地産地消などからなるエネルギー転換のコンセプトが出来上がった。資金面はボーフムに本社を置くGLS銀行(GLS Bank、世界で初めて環境保護と社会貢献を目的に1974年に設立されたドイツの銀行)が協力してくれることになり、全国的な支援・協力体制が徐々にできあがっていった。1994年1月16日、ついに市民運動側に会社設立の正式許可が下り、シェーナウ電力会社(EWS)が誕生した。翌1995年11月12日、シェーナウ町議会は、町の電力供給の認可をこれまでのKWRではなく、市民運動から生まれたEWSに与えることを僅か1票差で決定した。

ところが今度は反対派が、この決定を取り消すよう求める住民投票を行うよう要求し、町議会がそれを認めたのだ。目標に近づいたと思ったら、またしても振り出しに戻ってしまった。「素人には電力会社の運営はできない」と主張するKWRや町の有力政治家たち、それに同調する人達が増えていった。市民運動側にとっては住民投票をもう1度やり直さなければならないのはショックで、無力感にも襲われた。しかも今度選んで欲しいのは前回と違ってNein(反対)、混乱する心配もある。別の戦略を考えなければならない。そこで考えられたのが家庭訪問だった。開業医のスラーデックさんは2週間の休暇をとり、家を一軒一軒訪ねて説明して回ったが、その間に何人かの患者が離れていった。女性たちはきれいな布をかぶせたジャムの瓶を持って各家庭を訪れ、説得した。朝食のパンにジャムを付けようと布をとると「今度の投票にはNeinを!」という言葉が目に飛び込んでくるという趣向だった。

今度の住民投票ではどちらも必死だったため、選挙運動は熾烈を極め、小さな町の住民は賛否両論に分かれ、家族間でも感情的に対立するケースもあったという。KWRや町の有力者たちを相手にしての闘いには勝ち目がなさそうに見えることもあり、1996年3月10日の住民投票の当日は敗北も覚悟したという。しかし、2度目の住民投票も約85%という高い投票率のなかで市民運動側が52.4%を得た。僅差ながら勝利を収めることができた瞬間、厳しい運動を続けてきた市民たちは、涙を流し、抱き合って喜んだ。これによって、シェーナウの町の電力供給の権利をEWSが取得することが最終的に決まったのだ。気がついたら、「原発のない未来のための親の会」設立から10年以上が経っていた。

だが、EWS側の勝利も町の電力供給の権利を獲得したにすぎなかった。今度は実際に電力網をKWRから買い取る必要があったが、KWR側は電力網売却に対して870万マルク(約4億5000万円)という法外な要求をしてきた。これはEWS側の見積もりの倍以上の額だった。足りない分は市民有志の経営参加とGLS銀行の「シェーナウ・エネルギー基金」を通しての寄付でまかなうことになった。グリーンピースや自然保護連盟(NABU、Naturschutz Bund Deutschland e. V)などさまざまな環境保護団体が協力して全国的な募金活動が展開されたが、ある広告代理店のアイディアで「わたしは(原発産業にとって)厄介者」というキャッチフレーズが生み出されると、多くの人が「厄介者になる」と名乗り出て、募金活動は瞬く間に広がった。厄介者(Störfall)というドイツ語には、原子力発電所などの事故という意味もある。

スラーデックさんたちは、例えば高齢者のための医療講演会や若者のためのロックコンサートなど、さまざまな催し物を企画、テレビで反原発の趣旨を説明するかと思えば、学校に出向いて生徒たちに脱原発の意義を説明し、募金への協力を説いて回った。多くのマスメディアにも取り上げられ、「わたしは厄介者」と書かれたTシャツは飛ぶように売れた。子供たちがお小遣いを寄付してくれたり、「誕生日のプレゼントはいらないから、代わりに寄付して!」と呼びかけたりする人も大勢いた。趣旨に賛同したからと言って100万円相当のお金をポンと寄付してくれたフランス人女性もいた。ウルズラ・スラーデックさんがこの女性にお礼の手紙を出すと感激して、さらに120万円を追加してくれたという。というわけで短期間に200万マルク(約1億円)が集まったという。結局570万マルク(約2億9000万円)で送電網を買い取り、さらに技術的に必要な準備を整え、EWSがシェーナウの町への電力供給を実際に開始したのは、1997年7月1日のことだった。

翌1998年、EUの電力自由化の方針に従って、ドイツも電力市場の自由化が実現、これが市民運動から生まれたエコ電力供給会社、EWSの発展を後押しした。EWSは他の電力会社のように利益を上げることではなく、脱原発の実現を目的としており、原発や石炭、石油による電力をまったく供給せず、再生可能エネルギー電力が95%、残りの5%弱は天然ガスによる電力だ。この方針に賛同し、EWSと契約する人は去年末の段階でドイツ全国の13万5000戸以上にのぼり、そのなかには有名なチョコレート会社リッター(Ritter)や大手自然食品会社なども含まれる。 また、「原発のない社会の実現」という当初の市民運動の目標を忘れず、太陽光発電やコージェネレーションの促進にも力を入れている。「市民の市民による市民のための」電力供給会社を実現させたドラマチックなシェーナウの市民運動については、実は「シェーナウの想い」という映画がつくられており、これに日本語訳を付けたDVDの上映運動が日本で展開中だが、詳しいことは、次回以降にお伝えする。乞うご期待!

 

 

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