断ち切られた人生 - チェルノブイリのリクビダートルたち

あきこ / 2012年4月29日

チェルノブイリは警告する(Tschernobyl mahnt)」というウエブサイトがある。そこには1986年から2000年に至るチェルノブイリ原発の事故とその経過について、ドイツのグリーンピースがまとめた「スキャンダルの年代記」と題した記録が掲載されている。その記録の最初の部分には次のように書かれている。「1986年4月26日午前1時23分(モスクワ時間)、チェルノブイリ原発で爆発事故発生、27日原発に隣接するプリピャチ市封鎖、当局は住民を3日間仮設テントに収容すると通知、原子炉の消火活動が続く。28日、スエーデン、ノルウェー、フィンランドで高度の放射能検出。ソ連当局は原子炉の事故を否認。4月28日21時、タス通信がチェルノブイリ原子力発電所で深刻な核の事故が起きたという最初の公的な発表をした。事故発生から40時間以上も経ったあとでの発表であった」と。

上記の「スキャンダルの年代記」を見ると、4月28日、「風の関係から大気中に放出された放射能がドイツ連邦共和国に流れてくるとは考えられない」とリーゼンフーバー連邦研究・技術相、さらに、「危険なのは原子炉周辺の30キロから50キロ範囲のみであるため、ドイツ連邦共和国には危険は及ばない」とツィンマーマン連邦内務相が述べている。ドイツの公的機関が原子炉事故の影響に対する初めての警告を発したのは5月3日のことであった。事故の影響を受けて、ドイツではバイエルン州で最も高い線量が計測された。26年を経た現時点でもバイエルン州の一部地区では狩猟やきのこの採取が制限されている。「1986年5月21日、プリピャチ市は完全に避難対象区域となった。1986年の避難は原子炉から30キロ範囲の住民が対象であったが、1989年の第二次避難では15キュリー(1キュリーは3.7×1010ベクレル、すなわち37ギガベクレル)以上の汚染が確認された地域から10万人を超える住民が移住を余儀なくされた」と年代記は記述している。

この事故から25年後の2011年、「失われた場所 - 断ち切られた人生 (Verlorene Orte - Gebrochene Biografien)」という写真集が、ドルトムントにある「国際教育・交流センター(Internationales Bildungs- und Begegnungswerk)」より出版された。2003年以降、16回にわたってベラルーシとウクライナを訪ねた写真家リュディガー・ルブリヒト(Rüdiger Lubricht)が、ゴーストタウンと化したプリピャチ、立ち入り禁止地帯となったウクライナやベラルーシの無人の村落を「失われた場所」として写真に収めている。この写真集の後半にはチェルノブイリ原子力発電所事故の直後、事故処理作業に従事したいわゆるリクビダートル31名のポートレートと証言が掲載されている。チェルノブイリの事故処理に動員されたことで、人生が「それ以前」と「それ以後」に分断されてしまった人たちだ。

この写真集の中にある「リクビダートル - 忘れられたヨーロッパの救済者」と題したテキストの抄訳を以下に記しておく。

1986年から89年にかけて、60万から80万の人たちがチェルノブイリに動員された。そのうちの約30万人が事故直後から2年間、同地で活動した。正確な数はわからない。1990年から91年、ソ連政府がチェルノブイリの長期にわたる影響を認めざるを得なくなった段階で、ようやくリクビダートルの統一的な登録作業が始められた。しかしこの時点では動員についての記録は不完全かつ欠陥の多いものとならざるを得なくなった。(・・・中略)リクビダートルとして知られているのは、爆発した原子炉の消火、原子炉を覆う「石棺」の建設、30キロの立ち入り禁止地区から住民の避難に立ち会った人たちのことであり、今ではYouTubeで彼らの活動を撮影したフィルムを見ることができる。(・・・中略)しかしその他の多岐にわたる作業に動員されたリクビダートルも、危険な放射能汚染にさらされた。たとえば周辺地域の除染、地面の開削、住居や車両の洗浄、道路舗装などである。技術者、技師、建設作業員、科学者、パイロット、医療従事者をはじめ、運転手、料理人、クリーニング業者、店員などありとあらゆる職種の人たちがチェルノブイリに送りこまれたのである。半分以上が軍隊に所属、あるいは予備役から召集され、アフガニスタンでの軍事活動からすぐにチェルノブイリに送られた者も少なくない。彼らの背景がいかに多様であるにせよ、チェルノブイリが彼らの人生を決定的に断ち切ったことは共通している。チェルノブイリ以後の人生はすっかり変わってしまったのだ。

現在、リクビダートルの存在はほとんど忘れられている。彼らには、無料の治療、住居の入居権、追加休暇、早期の年金支給といった法的な補償が約束されているとはいえ、ソ連解体後の経済情勢の変化の中で、彼らは自分たちの権利を戦い取らなければならない状況にある。特に困難なのが、彼らの病状がチェルノブイリでの動員によるものだという認定を勝ち取ることだ。この点については、国際原子力機関(IAEA)よりも、該当する諸国の対応のほうが進んでいる。例えば、ウクライナでは2005年、チェルノブイリでの作業で主たる扶養者を失った1万7000を超える遺族が遺族年金を受けるようになった。これに対してIAEAはチェルノブイリによる明らかな死亡事故として31件しか認めていない。これは1986年4月26日、原子炉火災の消火活動によって急性放射線障害で死亡した消防員たちである。

この写真集は「チェルノブイリの大惨事の渦中に一人一人の人間がいることを示した」と評価されている。心に刻むことを通して過去から学び、そこから未来を築くことが、この写真集を発刊した「国際教育・交流センター」の設立趣旨だという。「今後、人類は数世代にわたって放射能汚染という困難な遺産を背負って生きなければならない。我々の子孫の人生基盤を破壊しない社会と経済のモデルを作り上げるように、チェルノブイリは我々に警告を発しているのだ。そのために必要なのは、記憶の文化である」と「国際教育・交流センター」の事務局長は序言で述べている。

日本政府は去年の暮れ、原子炉が「冷温停止状態」にあり、事故は「収束した」と発表した。しかし、福島の原子力発電所では今なお多くの人たちが作業に当たっている。その人数はどれくらいにのぼるのだろうか。その人たちにはどのような背景があるのだろうか。また、彼らには今後どのような人生が待ち受けているのだろうか。チェルノブイリの最も危険な場所で困難な作業に従事したリクビダートルの多くが、今も甲状腺癌、白血病、循環器系などの病気と闘い、苦しい生活を強いられている。チェルノブイリ事故から26年、写真集「失われた場所 - 断ち切られた人生」を見ながら、福島原子力発電所およびその周辺で働いている人たちのことを考えずにはいられない。

 

4 Responses to 断ち切られた人生 - チェルノブイリのリクビダートルたち

  1. Sakura says:

    貴重な報告をありがとうぎざいます。この写真集を買おうと思いました。4月の日本で、日本経済の発展のために原発が必要であると発言する日本の政治家の顔をテレビで見ました。原発再開へ躍起になっている政治家の発言を聞きました。人々が日々何を考え、暮らしているのか、とても気になりました、新緑の美しい五月の光の中で。自動販売機など、必要な場所に少しあればいいし、既にあたたかくなった季節にウオシュレットの温便座は不要だと。どこもかしこも便利さの裏で電力を贅沢に使っています。そのことに気づく人は少ないのではと思いました。日本人はどんどんひ弱になってゆく、と私には思われました。

    • あきこ says:

      Sakuraさま

      ありがとうございます。日本は今、稼動している原発は1基もありませんね。

  2. みづき says:

    リクビダートルのドキュメンタリーは、YouTubeにもあって、
    しばらく前に見たのですが、とてもショックでした。
    何年かごとに同じ人を取材していましたが、ソ連崩壊後の
    経済悪化のため、医療費や保証金が削られてしまったという
    話があり、気の毒でなりませんでした。

    チェルノブイリ事故直後は、ドイツの政治家も「ドイツまでは
    放射能は来ないから安全だ」というようなことを言っていたのですね。
    日本の事故に関しても、誰がいつ、何を言ったのか、きちんと
    記録しておいて、糾弾すべきかと思います。
    とくに、東電幹部や原子力保安院などの技術系の機関には、責任を
    強く問いたいです。

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