ドイツの長い反原発運動の歴史

こちゃん / 2011年9月1日

ドイツ初の原子炉は研究用として1957年にミュンヘン郊外のガールヒングに建設された。初の商業用原子力発電所は1962年にマイン川沿岸の小さな村カールに完成している。当時、ドイツ経済は急成長を遂げており、原子力発電は大いに歓迎され、第二の産業革命を生むとまでも言われた。1960年代末までに西ドイツで運転を開始した原子力発電所は 6カ所に及んだ。

1973年のオイルショックは原発建設に一層の拍車を掛けたように見受けられた。1970年代に西ドイツで運転を開始した原子力発電所は11カ所となっている。1980年代には新たに13カ所で発電が開始されている。殆ど全てが1970年代に計画されたものである。

しかし一方で、放射能の危険に対する知識が国民の間に次第に広まっていくと、原発に対する不安も徐々に出てきた。

ドイツ初の反原発運動は南ドイツのライン川沿いの町、ワインの産地ブライザッハ(人口当時約6000人)で起きた。1969年、そこに原子力発電所が建設されることに決まったのだが、その発電所の冷却塔から排出する水蒸気が、彼らの造るワインの質に悪影響を与えるかもしれない、とブドウ栽培の農家やワインの醸造業者らが強く反対したのだ。彼らは当局に対し何度も異議を申し立て、示威運動を繰り返した。その結果、この計画は1973年に放棄され、発電所はブライザッハから10数キロ離れたヴィールという土地に建設されることになった。

しかしヴィール一帯はドイツで日光が一番強く、ワインの名産地として知られるカイザーシュトゥール地域に当たる。「冷却塔から出る水蒸気が太陽光を遮り、我々の恐れる霧の発生を助長する。また、発電所の冷却水はライン川の水温を上げ、生態に悪影響を及ぼす。我々はこののどかな地域が第二のルール工業地帯になることに反対する」と住民は訴え、原子力発電所の建設に猛反対した。当初僅か27人だった反対者グループには近辺村落の住民も加わり、反対運動はどんどん膨らんでいった。そして1975年、遠方からの参加者も含めて合計2万8000人が発電所の建設現場に侵入して行ったデモには、警察の放水車が出動するまでに至った。それをテレビが全国に報道し、原発反対運動は一気に全国的な運動に広がっていった。

トリウムやプルトニウムなど、ウランよりさらに危険な核燃料が登場してきたことも反原発運動に拍車を掛けた。ライン川下流のカルカーに建設されたドイツ初で唯一の高速増殖炉 – ここでは1973年から建設が始まっている − は反対運動を真っ向から受けた。1977年に同地で行われたデモには4万人が参加している。ノルトライン・ヴェストファーレン州のハム=ユントロップに建設されたトリウム高温ガス冷却炉 − 建設開始は1971年 − もそれに劣らぬ反対を受けていた。反原発運動は勢いを増し、1979年秋、当時西独の首都だったボンには各地から10万人もが集まり、大きな反原発デモを繰り広げた。

こうしたドイツの反原発の動きを顧みる際、特にその運動が政治に与えた影響をみるにあたって、緑の党の存在は忘れられない。同党は1970年代の環境意識の高まりから生まれ、1980年代には全国レベルで組織形成されるようになった。1983年からは連邦議会に議員を送り出している。緑の党は一貫して反原発の立場を貫いており、議員らは議会で反原発を唱えるだけでなく、議会外でも積極的に反原発運動を支援してきた。

なお、反原発運動の初期の動機が、知らない間の発電所からの放射能の漏れとそれによる身体への害に反対するものだったのに対し、1979年3月28日の米国スリーマイル島の原発事故以後のモチーフは、想定可能な最大規模の事故の阻止などへと広がっていく。原子炉の不具合や操作ミスによる事故に加えて、飛行機の墜落、地震などによる事故が想定されるようになった。21世紀に入ってからは、これにテロリストによる攻撃が加わる。また、核廃棄物の処理、増える使用済み核燃料の貯蔵も次第に大きな問題になっていく。

バイエルン州ヴァッカースドルフに計画された核燃料再処理工場の建設事業は1980年代に政治的にも最も問題となったプロジェクトの一つだった。100億マルクという膨大な資金を投資して125ヘクタールの土地に10年間の建設期間を掛けて完成される予定だったこの工場は、原子力発電に反対する人たちをじっとさせてはおかなかった。1985年12月の建設作業開始以来、外部から駆けつけた反対派は近隣の住民もその運動に巻き込み、彼らの行動を阻止するために出動した警官隊と激しく衝突した。1986年3月にはデモ隊の中から2人の死者まで出している。但し1人の死因は心臓麻痺で、もう1人も喘息発作が死因だったという。

この反対運動は1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故後いっそう激しさを増し,あたかもドイツ国内で内乱でも起きたかのような場面さえ出現した。10万人以上が参加した6月のデモでは、デモ隊の中から怪我人や警察に逮捕される人たちが多く出た。3000人が出動した警察側にも怪我人と死者が1人出た。死者はデモを見張るヘリコプタ−のパイロットだった。

建設工事は、工場完成後に運営に当たるはずであった電力企業のフェヴァ(現在はエーオン)が1989年に仏コジェマと協力協定を結んだ後に中止された。

1990年代からはフランスで処理された使用済み核燃料の運搬が反原発運動にデモのきっかけとなった。核燃料を積んだキャスク(使用済み核燃料輸送容器)がドイツを横断して、最終貯蔵施設が見つからないまま、中間貯蔵施設に指定されたニーダーザクセン州のゴアレーベンに運ばれる度に、大勢のデモ隊が繰り出し、鉄道線路脇などに集まり、運搬を妨害した。ときには線路に横たわったり、或は身に付けた鎖と線路を溶接してしまったりする人も出るなどし、警官隊との衝突は避けられなかった。キャスクの外側で高い放射能が検出され大問題となったこともある。

ドイツの反原発運動は21世紀に入ってからも続いていた。キャスクの運搬は続いているし、環境に優しい代替エネルギーが十分に得られないことや、口では脱原発を唱えても実際には原発に固執する政治が続いていたからだ。そして、政治家や一般市民の間でも、チェルノブイリのような事故が旧ソ連外で生じることはあるまい、という確信が強かった。それを覆したのが福島の原発事故だ。

ドイツの反原発運動は目的を達成したように見受けられる。

補遺:

1973年に計画されたヴィールの発電所は結局完成せず、敷地一帯は1995年以降、自然保護区域に指定されている。

ハム・ユントロップのトリウム高温ガス冷却炉は1987年6月に運転が開始されたものの、1988年4月には停止している。

カルカーの高速増殖炉の建物は1985年に完成したが、ここでは発電が行われることはなかった。スリーマイル島の原発事故発生一日後の1979年3月29日、ドイツ連邦議会は「核燃料の将来に関する調査委員会」の設立を全員一致で決定しており、そこでは高速増殖炉の長短所も勘案された。しかしカルカー発電所に最終的に終止符が打たれるのは7年後にチェルノブイリ事故があってから以後のこととなる。潜在的な危険が、最終的にぬぐい切れなかったことが理由だ。敷地は現在遊園地になっている。

核燃料再処理工場が計画されたヴァッカースドルフは現在、イノベーション・パークとなり、約20の企業にスペースを提供している。