感動的だったコール元首相の「ヨーロッパ葬」
6月16日に87歳で亡くなったドイツのコール元首相の葬儀が7月1日、欧州連合(EU)の主催でフランス東部、ストラスブールの欧州議会で行われた。コール元首相は、東西ドイツ統一を実現させただけではなく、ヨーロッパの和解と統合に貢献したため、EUの「名誉市民」の称号も与えられていた。EU 主催の葬儀はこれがはじめてであり、EU代表や各国首脳の心のこもった挨拶によって、感動的な式典となった。
午前11時から2時間にわたって行われた葬儀の模様は、ドイツの公共放送ZDF(ドイツ第2テレビ)で実況中継されたが、会場にはコール元首相の大きな写真が掲げられ、棺はブルーの地に12個の金の星が円を描くEU旗で覆われていた。コール元首相の葬儀がドイツ国内ではなくフランス領で行われることについては特にドイツ国内でさまざまな議論があったが、葬儀を主催したユンカー欧州委員長は、コール氏自身がドイツではなく、EU主催の葬儀を希望したこと、決してドイツに反対するものではなく、ドイツを含めた欧州連合のいわば「国葬」だと説明した。ユンカー委員長(ルクセンブルク出身)は、ドイツのノーベル文学賞受賞作家、トーマス・マンの言葉を借用して「ヘルムート・コールはドイツの愛国者だったが、ヨーロッパの愛国者でもあった。コール元首相の死によって我々は戦後ヨーロッパの偉大な人物を失った」と追悼の辞を述べた。欧州議会のタヤーニ議長(イタリア出身)、トゥスクEU常任議長(大統領に相当。ポーランド出身)、それにアメリカのクリントン元大統領やスペインのゴンザレス元首相ら世界の首脳の多くが、次々に故人を「我が友」と呼んで個人的な感情をあらわにしてその死を悼んだことが、私には強く印象に残った。
中でもヨーロッパの政治家とは一味違って砕けた調子のスピーチをしたのは、 クリントン米元大統領だった。棺を指差して次のように述べたのだ(要旨)。
我々も皆いつかは棺に入る運命にあるが、我々が生きている間にできることは、子供たちにより良き未来を手渡すこと、彼らが自由に自らの意思で生きることができる社会を残すことである。ヘルムートは我々に大きな意味を持つ行為に参加するチャンスを与えてくれた。彼は紛争より協力が大事だという信念を持っていた。彼は一人の人間が独裁的な権力を振るう世界ではなく、みんなが話し合い、協力してより良き方法を見つけていくという共同作業への参加を我々に呼びかけたのだ。I loved this guy。ヘルムート、君が我々に残した最大の贈り物は、子供たちに自由、平和、安全、そしてより良き生活を残すことが最も重要だという教訓である。我が友よ、君は良い仕事をした。今は安らかに眠りたまえ。
クリントン元大統領はこう締めくくり、棺に向かって敬礼した。このスピーチに私はトランプ現大統領との違いを改めて痛感した。
コール元首相は悲惨な第二次世界大戦を体験した最後の世代に属し、兄を戦争で失った体験と大学で歴史を専攻したことから「ヨーロッパで2度と戦争を起こしてはいけない」という政治的信条に従って政治の道に入ったといわれる。そもそもドイツ統一への道を開いたのは、1970年代に東西間の緊張緩和を目指し東方外交を推し進めた社会民主党のブラント元首相だったが、コール首相もドイツの統一には近隣諸国民との和解と信頼の獲得が欠かせないとの信念から各国との友好関係に努めた。そうした努力が報いられてスピーディーな東西ドイツの統一につながった。
ポーランド出身のトゥスクEU常任議長は、「ヘルムート・コールは中部及び東部ヨーロッパ諸国の市民の自由を求める運動の意味を理解した数少ないヨーロッパ人の一人だった。彼はその理想を基にドイツの統一を実現し、ヨーロッパの統合にも貢献した」と評価した。ドイツの統一、ヨーロッパの鉄のカーテン消滅に大きな役割を果たした旧ソ連のゴルバチョフ元大統領は、病気のため葬儀に参列できなかったが、代わって参列したロシアのメドヴェージェフ首相は「コール元首相は、ロシアも統一ヨーロッパの一員だと考えていた」と追悼の辞を述べた。現在ウクライナ東部問題を巡ってEUと対立するロシアの首相が、コール元首相の葬儀に参列し、このような弔辞を述べたことは注目に値する。
39歳のフランスのマクロン大統領は、「我々の世代にとってヘルムート・コールはすでにヨーロッパの歴史上の人物になっている。コール元首相の残した政治的な遺産を守り、独仏の友好関係の強化とEUの発展をめざして勇気と希望を持って前進する」と述べた。マクロン大統領のこの言葉によってコール元首相の葬儀では、ヨーロッパの過去、現在、未来が浮き彫りになった感があった。
最後に弔辞を述べたドイツのメルケル首相は、いつものように淡々とコール元首相の歴史的な貢献について話し始めたが、東ドイツ出身の自分の運命を含めて感謝の念をあらわしたくだりは、多くの人の心に響いた。
ヘルムート・コールが連邦首相になったとき、ドイツとヨーロッパは東西に分断されていた。彼が辞任したとき、ドイツは歴史上初めて、平和で、自由で、近隣諸国と友好関係に結ばれた統一ドイツとなっていた。EU拡大と中・東欧諸国の北大西洋条約機構(NATO)加盟、共通通貨ユーロの導入へと道は進んだ。コール元首相のヨーロッパ統合への硬い信念と近隣諸国との間に築いた信頼関係がドイツ統一を可能にした。ヘルムート・コールがいなければ、壁の向こう側に閉じ込められていた東の市民、私を含めた何百万人もの人間の運命は違ったものになっていた。
メルケル首相は最後に棺に向かってこう呼びかけた。「私が今ここに立っているのも、貴方のおかげです。貴方が私をはじめ多くの人に与えてくださったチャンスに感謝いたします。貴方は非常に多くのことを成し遂げられました。それに対して私は感謝の心とともに深々と頭を下げ、敬意を表します。貴方の残された政治的な遺産を守っていくのは、私たちの使命です。安らかにお眠りください」。
メルケル首相は、また、長年コール元首相を支えた最初の夫人、故ハネローレさんの貢献に感謝する一方で、亡くなるまで親身に世話をした2度目の夫人、マイケ・コール=リヒターさんの労をねぎらったが、コール家の家族の不和が報じられているときだけに女性らしい細やかな配慮だと感じられた。
「不倶戴天の敵」だった過去のドイツとフランスが奪い合った町として象徴的な意味を持つフランス領のストラスブールでのコール元首相のヨーロッパ葬は、ドイツ国歌とEUの「国歌」であるベートーベンの第9の「歓喜の歌」の合唱で締めくくられた。
この後、コール元首相の棺はヘリコプターで故郷、ドイツのルードヴィッヒスハーフェンに運ばれ、棺を包む布がドイツ国旗に変えられてから市内を車で通り、沿道の市民は雨模様の中「わが町出身の政治家」に最後の別れを告げた。その後棺は船でライン川を渡り、対岸の町、シュパイヤーのコール氏ゆかりの伝統あるドームに運ばれ、そこでカトリック司教による葬儀が行われた。その模様は公共放送、ドイツ第一テレビ(ARD)が実況中継したが、この葬儀にもドイツのシュタインマイヤー大統領やメルケル首相のほかクリントン元大統領らも参列した。コール元首相は、ルードヴィッヒスハーフェンにあるコール家の墓地ではなく、シュパイヤーの墓地に埋葬された。
ドイツのメディアはこのコール首相の葬儀について、どう伝えただろうか。「コール元首相の最後の別れの儀式をヨーロッパ葬にしたのは、やはり正しい決定だった」と書いたのは、ベルリンで発行されている日刊新聞「ベルリーナー・ツァイトゥング」である。ダニエラ・ファーテス記者は、「政治的なメッセージ」という見出しの社説で次のように解説している。
コール元首相はドイツ統一を実現させた功績が評価される反面、政治献金を巡るスキャンダルにもまみれていたため、同氏のヨーロッパ葬には、批判や懸念もあった。しかし、欧州議会での葬儀はコール元首相の葬儀であったと同時に同氏の残した政治的メッセージをめぐる感銘深い記念式典となった。弔辞を述べたアメリカのクリントン元大統領からロシアのメドヴェージェフ首相までの世界の首脳たちは、次から次へとヨーロッパ統合の意味を強調し、独仏をはじめとするヨーロッパ諸国間の長年の不信感を取り除き、和解と協力への道を開いたコール元首相の功績をたたえた。この感動的な記念式典によってヨーロッパ統合への新たな感動が、人々の間に生まれることが期待される。ヘルムート・コールは、その死をもってなお、何事かを成し遂げたのである。
フランクフルトで発行されている全国新聞「フランクフルター・アルゲマイネ」も、「コールの最後の行為」という見出しのベルトルト・コーラー記者の社説を載せた。
ドイツとフランスの歴史的な敵対関係を象徴するストラスブールの、ヨーロッパ諸国民を代表する欧州議会での葬儀は、コール元首相の最後の偉大な政治的行為と見るべきであり、事実、そう見ることができるものとなった。それは全ヨーロッパ人に対して、画期的な成果であるヨーロッパ統合を危険にさらしてはならないという警告であり、コール氏の世代とその前の世代が自由と平和、友好関係を目指した努力を、のちの世代も続けるようにというアピールでもあった。
フランクフルター・アルゲマイネの別の短い解説記事は、欧州議会での葬儀にイギリスのメイ首相、メイジャー元首相も参列したことに触れ、「当初EU残留を希望したメイ首相は、ヨーロッパ統合に対するコール元首相の功績を讃えるEU代表や各国首脳のスピーチを聞きながら、双方にとって高くつくイギリスのEU離脱は、もしかしたら歴史的な間違いだったかもしれないという思いにとらわれたのではないか。少なくともメイジャー元首相は、イギリスがこれからはEU内部で独自の『特別の役割』を果たせなくなったことを残念に思ったのではないか」と書いていた。
北ドイツ・ミュンスターで発行されている日刊新聞「ヴェストフェーリッシェ・ナーハリヒテン」は、「シンボルと政治的意思表示に満ちた一日だった。軋轢と各国の小心さが目立ってきた最近のヨーロッパが初心に立ち返り、欧州連合の基本的理念について思いを巡らす一日となった。初めてのヨーロッパ葬はまた、ヨーロッパ大陸の諸国民がいかなる困難を克服して平和と自由と繁栄を基に世界に門戸を開いた社会を築き上げたか、なにゆえに、かつての敵が友となったかを明らかに示した」という解説を載せた。そのほか「ストラスブールで始まりシュパイヤーで終わったこの日は、危機的状況にある現在のヨーロッパに対する教訓の一日だった」と書いたベルリンの日刊新聞「デア・ターゲスシュピーゲル」など、多くの新聞がコール元首相のヨーロッパ葬をポジティブに捉えた記事を掲載した。
各方面からのコール元首相の業績と賛辞の詳細な紹介から、心打たれるような葬儀の様子が伝わってきました。単なる抽象的な言葉での報告からは、それは伝わってきません。じゅんさんの報告に感謝です。
多少なりとも、それに近いような政治家が日本にも(現代の世界の多くの国にも言えることでしょうが)いれば、と思わずにはいられません。