メルケル首相のお膝元で、右翼ポピュリズム政党の躍進
旧東ドイツ最北部のメクレンブルク・フォアポンメルン州は、たくさんの湖がある美しい自然に恵まれた地方だが、ドイツ東部の5州の中では最も人口が少なく、農業と観光業以外に見るべき産業もあまりない。この小さなメクレンブルク・フォアポンメルン州で9月4日に行われた州選挙が、ドイツ全土の注目を集めた。「もし世界が破滅するようなら、私はメクレンブルクに行く。世界の破滅がここに届くのは100年後だと思うから」。このような意味のことを最初のドイツ統一(1871年)に功績のあった「鉄血宰相」ビスマルクが言ったと伝えられるほど、昔からこの地方は辺境の地とみなされてきた。それから100年以上経った今も、メクレンブルク・フォアポンメルン州が人々の脚光を浴びることはあまりないのだが、今回は人口わずか160万人の同州の選挙結果に政界もマスメディアも注視した。というのもこの州がメルケル首相の選挙区であること、台頭し続ける右翼ポピュリズムの新政党「ドイツのための選択肢(AfD)」がこの州でも勢力を伸ばしていることが伝えられていたからだ。
メクレンブルク・フォアポンメルン州では2008年以来、社会民主党(SPD)のエルヴィン・ゼレリング氏が州首相を務め、2011年以降はSPDとキリスト教民主同盟(CDU)の連立政権が州政治を担当してきた。連邦レベルでのいわゆる大連立政権と同じだった。最近は難民問題で特に旧東ドイツ地域でメルケル首相の人気が下がっており、その傾向がこの州の選挙結果にどう現れるか、来年行われる総選挙への前兆としても注目されたのだった。結果は、ゼレリング州首相のSPDが30.6 %で第1党を確保、AfDは20.8 %の得票を得て第2党に躍進、19 %の CDUを第3位に追いやった。AfD以外の全ての党が得票を減らし(SPD −5 %、CDU −4 %、左翼党 −5.2 %)、前回8.7 %を得た緑の党は、今回は4.8 % で、5 %条項に阻まれて州議会進出も叶わなかった。10年間同州議会に席を置いていたネオナチの政党、国家民主党(NPD)の今回の得票率が3 %で、州議会から去ったことは、一般に好感を持って迎えられた。外国人の数も難民受け入れ数も極端に少ない同州で、メルケル首相の難民問題での「私たちはやり遂げます」という発言に反発し、「メルケル首相やめろ」を主なスローガンに掲げた極右ポピュリスト政党が勝利をおさめた。この結果、ドイツの16州のうち、9州の州議会でAfDが議席を占めることになった。
メルケル首相のお膝元の州で、同州の政権与党であり、メルケル首相が党首を務めるCDUがAfDに追い越されたこと自体、特にCDU陣営にとってはショックだったが、特定の地域、例えばバルト海に面した保養地として知られるウーゼドム島などでは有権者の二人に一人がAfDに投票したことがわかって、人々に衝撃を与えた。ウーゼドム島の中でも一番有名な場所は、西北部の小さな村、ペーネミュンデで、ここは第二次世界大戦中ナチス・ドイツ軍が密かに秘密兵器、V2ロケットなどの開発に努めていた場所で、今では同地の歴史博物館にV2ロケットなどが旧東ドイツやソ連製の兵器と並んで展示されている。ここはまた第二次世界大戦中に捕虜収容所があって、収容者たちがドイツの軍事目的のために酷使されたところとしても知られている。そのペーネミュンデでは、有権者の46.8 %がAfDに投票した上、5.6 %がネオナチのNPDに投票した。本来は世界各国からの観光客を歓迎しなければならないリゾート地で、住民の過半数が外国人排斥、難民反対の党に投票したのだ。なぜそうなのか、早速メディアはその理由をさまざまに分析している。ウーゼドム島は伝統的に「ドイツ帝国の皇帝が海水浴にきたこと」を売り物にして、主としてドイツ国内の観光客を相手にしてきたところで、国際的に開かれた観光地ではなかったと指摘するもの、あるいは第二次大戦中ナチの軍事的拠点であったことが人々の意識に残っているのではないかなどと伝えるメディアもあった。さらに外国人排斥の傾向が観光地としての人気にマイナスの影響を与えることを憂慮する論調もあった。
私の友人で、かつてドイツの新聞の東京特派員をしていたドイツ人男性は、たまたまお姉さんがウーゼドム島で療養中だったため、早速彼女に電話をかけて、選挙結果にショックを受けたことを伝えた。ところが意外なことにお姉さんの反応は、島民の現状を見れば今回の選挙結果は意外でも衝撃的でもないというものだったという。ウーゼドム島の東側は、ポーランド領で、介護施設でも慣れ親しんだドイツ人の介護士が辞めさせられ、代わりにポーランド領で暮らしながら毎日ドイツ側に働きに来る給料の安いポーランド人に取って代わられているのが現実だという。人々の怒りはポーランド人を安く使うドイツ人の経営者には向かわず、ポーランド人労働者に向けられているようだ。イギリスがポーランド人など旧東欧諸国からの安い労働力の流入に反対してブレグジット(イギリスのEU離脱)を決定したような問題が、この島にもあったのだ。お姉さんによると、今回の投票結果はネオナチの台頭というより、そうしたドイツ国内の問題を顧みようとはしない、「上の方にいるあの人たち(Da Oben)」に対する抗議票だというわけである。
確かにこのペーネミュンデでは、ドイツ統一の時の人口は900人だったが、それが今では290人に減っている。村には観光業以外に見るべき産業がないため、若い人たちはどんどん他の都市へ出て行き、残ったのは高齢者がほとんど、その上、村に残った人たちの失業も外国人労働者のおかげで増えるとあっては、不満が爆発するのも当然かもしれない。
しかし、現実をよく見ると、旧東ドイツの人たちの生活水準は、一般的に見て、統一前に比べ格段によくなっているのは事実である。だが、旧西ドイツ地域に比べまだまだ低く「自分たちはないがしろにされている」というルサンチマンが、単純なスローガンを掲げるポピュリズム政党によって噴出したということなのだろうか。何れにしても旧東ドイツ地域の方が西側よりAfDの支持者が広がっていることも事実である。一方、ゼレリング州首相(SPD)とローレンツ・カフィエー内相(CDU)のいわば大連立が、現実的な政策でこれまで成果を上げてきたと一定の評価を受けてきたのも事実である。州選挙前はAfDのトップ候補者が「AfDが州議会で第1党になる」と豪語していたが、その通りにはならなかった。またAfDが30%を越すという予想もあったが、実際には20%あまりに過ぎなかった。
AfDの伸びが少し抑えられたことに、ゼレリング州首相の人柄と政策が貢献したと見られている。2008年からメクレンブルク・フォアポンメルン州首相を務めるゼレリング首相は、実は西側の出身者でありながら東の人たちの良き理解者であるといわれ、「オッシー(東部の人たち)の理解者」というニックネームまであるという。これまた個人的な話で恐縮だが、私の親しいドイツ人の女友達はルール地方のハッティンゲン出身で、ゼレリング首相と同じギムナジウムで勉強した。パーティーなどでも一緒になったことがあるが、当時の彼はハンサムで、女性たちに人気のある静かで落ち着いた青年だったという。彼女によると、今の彼にハンサムな面影はあまり残っていないが、彼が上流階級出身でないこと、ルール地方の訛りで話す素朴な印象を与える人であること、人々に寄り添った考えをすることなどが西側出身の政治家でありながら、東部の人たちに受け入れられてきた理由ではないかという。そのゼレリング首相のSPD は5 %近く得票を減らしながらも第1党の地位を守ったため、首相を続投することが可能になった。
ゼレリング首相は「今度の州議会選挙は非常に大変だったが、これまででもっとも嬉しい選挙だった」とも語っている。選挙戦のさなか、これほど多くの人たちから「今までの貴方の政策を支持する」と暖かい言葉をかけられたことは、これまでになかったからだという。選挙前、メルケル首相の難民政策をはっきりと批判する一方、地元の抱える問題を重視する方針を強調したことも、州首相の地位を守ることができた理由だと見られている。同首相は、左翼政党との連立の可能性も探ったが、不安定な少数政権になるため、やはり、これまでどおりCDUとの大連立を続ける意向のようだ。CDUのカフィエー氏は「AfDの支持者に右翼ポピュリストというレッテルを貼るだけではなく、この党の支持者たちの不満をもっと真剣に受け取るべきだった」と自省している。今回の州議会選挙の結果を政治家たちが今後の政策にどのように生かすのか、注目される。