行間を読む ナチス時代の報道          

まる / 2014年1月19日
新聞に見入る兵士たち 1938年 Süddeutsche Zeitung Photo/Scherl

新聞に見入る兵士たち 1938年
Süddeutsche Zeitung Photo/Scherl

クリスマスマーケットで日本でも有名なバイエルン州の街ニュルンベルクには、ナチス時代のニュルンベルクに関する資料を集めた「帝国党大会会場資料センター」がある。そこで、「Zwischen den Zeilen?」(訳すと「行間?」の意)という展覧会が行われている。

この展覧会のタイトルには副題があって、それは「ナチスの権力手段としての新聞」という。その通り、この展覧会では、1933年にナチスが権力を掌握してから1945年の終戦までに、ドイツの新聞や雑誌、ラジオが、いかにナチスの影響下に置かれ、情報操作とプロパガンダに使われていたかを、当時の新聞の複製や写真に説明をつけながら見せている。

現在も、ドイツの新聞の数と多様性には驚くが、ワイマール共和国時代にも、ドイツでは4000以上もの多種多様な新聞と雑誌が発行されていた。しかしナチスが政権に就くと、まず社会民主党の機関紙「フォアヴェルツ」(Vorwärts: 1948年に再び出版されるようになり、現在は再び社会民主党の機関紙)や、共産党の機関紙「赤旗」(Rote Fahne)が禁止され、他の“反対派”と見られた新聞雑誌も次々と姿を消したため、その数は1935年には2500に減っていた。多くの優秀な記者や編集者も外国へ亡命していった。とはいえ、2500と聞くと結構な数だし、それだけあれば報道の多様性も確保されていたのではないかと思ってしまいがちだが、そうではなかった。というのも、多くの出版社がそれまでにナチス党の経営・管理下に置かれ、内容が強制的に同一化されてしまっていたからだ(Gleichschaltung)。例えば、党大会中の演説を掲載する時は、党が判子を捺したオフィシャル版をそのまま使うと決められていたし、そのうちにナチスは独自の通信社を創設したため、独自の取材をするお金と人材が足りない地方紙などは、いずれにしろ、その通信社から提供されたナチス色に染まった情報をそのまま掲載することになった。

しかし面白いことに、情報が“同一化”されたことで、読者が離れていった。どの新聞を読んでも内容はほとんど一緒なため、退屈だったのだ。そして矛盾したことに、ナチスは「ドイツには報道の自由がない」という印象を与えることを、国の内外で防ぎたがった。だから、明らかに“反対派”と分かる新聞以外には、あえてある程度の自由を与えていた。もちろん、自分たちにとって極めて都合の悪い内容の記事が書かれないようには注意した。例えばフランクフルター・ツァイトゥング(Frankfurter Zeitung)がそう。亡命せずにドイツに残った多くの優秀な記者たちが執筆し、以前から海外でも一目置かれる権威ある新聞であったため、ナチス党は「唯一、我々の情報を(海外に向けて)載せることができる媒体」と見て利用した。「FZの書き方はあえて、反体制派の雰囲気を残し、海外でそう受けとられるように書かれている……この役割を果たしてもらうためには、ある程度の自由を与える必要がある。色がつきすぎる場合には、必ず介入する」と帝国副広報官が書いていた。結局、1943年にはこの新聞もヒトラー直々の命令で廃刊となったのではあるが。

そして政治面は読者にとってはつまらなく、書き手としても創造力を発揮できる場ではなくなってしまったため、文芸面、スポーツ面などに力が入れられたというのも面白い。もちろん、文化の面でも、例えば児童文学までもが“アーリア化”されたり、印象派や表現主義絵画が“頽廃芸術”のレッテルを貼られてドイツ全国の美術館から排除されたりしたので、決して“非政治的”だとは言えないのではあるが。

「行間?」展 会場  Museen der Stadt Nürnberg, Dokumentationszentrum Reichsparteitagsgelände

「行間?」展 会場  Museen der Stadt Nürnberg, Dokumentationszentrum Reichsparteitagsgelände

さて、この展覧会のタイトルになっている「行間」であるが、これは「行間を読む」を省略したものだ。第2次世界大戦が進むにつれ、ナチスのプロパガンダと現実の間に食い違いがあることがだんだん一般市民にも分かってきたが、とうとう隠せないくらいになったのはスターリングラードの戦い(1942年6月から1943年2月)の頃からで、ドイツ第6軍がソ連の赤軍に負けた時だった。もちろんナチスは、この敗北を「お国を守るための果敢な戦いだった」と美化しようとした。しかし、その時点では国民は既に「行間を読む」ことを覚えていた。つまり、人々は、ナチスの好んで使う表現や言葉の「行間」から、真実を見抜くことができるようになっていたのだ。そこからこのタイトルは来ている。

この展覧会を見て私が覚えた言葉は「Selbstgleichschaltung」だ。検閲などなくとも、その時の体制に都合の悪い報道、言論表現を自ら控えることである。ナチス時代には、反体制派のジャーナリストたちが亡命したり排除されたりした後、こういう“自己検閲”があったため、言論の自由の制限や検閲のことを問題視する記者や新聞発行人はほとんどいなくなっていた。国民啓蒙・宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスも、政府に批判的な報道が出て来ることはそれほど心配しておらず、出版界に対する指示もほとんどなかったという。

特別秘密保護法が成立した日本では、今までにも増して、そういう“自己検閲”をする人たちが増えるのではないだろうかと推測する。そして、日本でも人々は「行間を読む」ことを学ぶようになるのではないか(既に今でもそうだと言う人もいるかと思うが)。ただ希望が持てるのは、現在の社会がデジタル化していることだろうか。ナチス時代のドイツでも、政府の宣伝ではない情報を求めて、ソ連や英国、スイスのラジオを聞いていた人も多かったという。そして亡命した知識人たちは、海外でドイツ語の新聞を作り、故郷に向けて情報発信することに努めた。しかし、今ならインターネットですぐに読めるそういう情報(もちろん、ネットが検閲されていないことが条件だが)を、当時のドイツに住む人間が入手することは、ほとんど不可能だった。そう考えると、インターネット•リテラシーというものが、いかに大切であるかが分かる。

「行間?」展は2014年4月6日まで開催されている。また、1月31日までは、ナチス時代に禁止されていた本、推奨されていた本、当時人気だった“非政治的な”本、児童文学などをテーマとした「言葉の暴力」という展示も行われている。

会場の資料センター(Dokumentationszentrum Reichsparteitagsgelände )までは、ニュルンベルク中央駅前からトラムの9番(Dokumentationszentrum行き)に乗って約15分。ナチス時代のニュルンベルクをテーマとした常設展も見応えがある。

ニュルンベルクは、初期ルネサンス期に画家、アルブレヒト•デューラーが活躍した街でもあるが、ナチス時代には毎夏党大会が行われていた場所であり、ニュルンベルク裁判の舞台ともなった。そのため、“負の歴史”を辿ることもできる。資料センターがあるのは、ナチス党が党大会を行った広大な敷地内に、5万人を収容する会議堂として計画した建物の中にある。1935年に着工したが、完成しないまま終戦を迎えた。現在ドイツに残る最大規模のナチス建築。

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