ドイツからの連帯の印
日本大使館は、ベルリン・ミッテ区の巨大な公園、ティアガルテンに隣接する一等地にある。3月11日、この大使館前で行われたデモについては私たちのサイトでも報告された。その日、ティアガルテンの一画に、福島の農民への連帯を現す印として桜の木が植えられる予定であった。しかし、この植樹計画にはベルリン当局の許可が下りなかったという。
ベルリンの反核団体「アンティ・アトム・ベルリン」は、3月11日の日本大使館前でのデモを実施する前からベルリン州政府と植樹について交渉を重ねてきた。最終的に州政府官房は、大使館前での植樹が「ベルリン市民の関心と相いれない」という理由で植樹を許可しなかった。これに対して「アンティ・アトム・ベルリン」は抗議の声を挙げた。植樹を計画した農民ルードヴィヒ・パーペさんは、「植樹の不許可を受け入れることはできない。こんなことは前代未聞だ。福島を記念すべき日に、ドイツの農民たちが日本の人々に連帯の印を送ろうしていることに対し、『ベルリン市民には関心がない』という理由で許可しないのは悲しいことだ。日本の民衆に対するベルリンの感受性のなさを示す無能の証拠だ」と述べた。
主催者である「アンティ・アトム・ベルリン」は、ベルリン州議会の各政党議員団に対して、日本の人々に対する連帯を表す行動としての植樹を認めるよう働きかけることを表明した。
それから2ヶ月後の5月12日、ようやく日本大使館前での植樹が実施されることになった。3月11日の植樹のためにトラクターで20時間をかけてベルリンに運ばれた桜の木は、ベルリン郊外で大事に保管され、この日を迎えることになった。3月11日と同様、お天気はあまり好くなかったが、大使館前にはドイツ人と日本人が集まった。この日もゲッティンゲンからルードヴィヒ・パーペさんが車で駆けつけた。主催者の挨拶に続いて、大使館の大使公邸に面するティアガルテンの空き地で植樹が始まった。パーペさんは愛用の鋤を持参して、地面を掘り始めた。「剣を鋤に打ち直し」という旧約聖書を引用したドイツの反戦・反核運動の標語を思い出した。土地を掘り起こしたあと、桜の木が植えられ、参加者が手で土を固めた。パーペさんが、持ってきた水をたっぷりと地面に注いだ。
植え終わった後、幹に「日本で原子力エネルギーと戦う名もない人たちへ」と書かれた板が打ち付けられた。3月11日にも読み上げられたパーペさんのメッセージがもう一度読まれた。以下、メッセージの抄訳である。
2011年3月11日、地震が津波を引き起こし、無数の人々の命を奪った。この自然の大惨事で亡くなった犠牲者に深い追悼の意を表する。
津波が起こる前に福島原子力発電所は大打撃を受けた。原子炉の大惨事が津波で起きたのか、あるいはすでに地震で起きていたのか、我々には判断できない。しかし、このような事故への備えが不足していたことはしっかりと覚えておかなければならない。
我々は今日、ヒロシマ通りにある日本大使館のすぐ横に、日本を象徴する木である桜を植える。日本が3月11日のような苦難に再び見舞われることがないようにという我々の希望を伝えたい。
ここドイツでは、原発推進者たちでさえ、原子力は極限状況では制御不能であり、要求されている100%の安全は錯覚であるという教訓を得た。
我々にとっては非常に緩慢ではあるが、それでもドイツは原子力エネルギーから決別した。福島事故から2年も経たないうちに、日本では残念なことに原子力との危険なゲームにしがみつく勢力が過半数を制してしまった。
この2年間、我々は多くの日本人に会った。中には20年以上も原子力に抵抗してきた人たちもいる。彼らは実に賞賛に値する戦いをしている。軽視、孤立、経済的不利益にさらされながらも、屈せず戦っている人たちだ。我々は、3月11日の被災者たちに想いを馳せ、日本で原子力エネルギーと戦う名もない人たちにも思いを馳せている。
日本と、そしてこの地球が福島のような事故に二度と遭わないように。我々は今日ここで、そして全世界に向けて呼びかける:
命を脅かす原子力エネルギーを止めよ
この地球のすべての被造物の命を大切にする未来を
メッセージが読み終えられたあと、参加者は日本への想いを胸に1分間の黙とうを捧げ、最後にドイツの反原発運動の歌「この国の原発に抵抗しよう、団結しよう」を歌った。すべてが終わった瞬間、激しい雨が降り出し、気温も下がってきたが、ドイツから日本への連帯の気持ちが熱い塊となって体を温めてくれた。
2週間を経た今、桜の木はティアガルテンにしっかりと根付き、日本大使館を見つめている。
因みに、パーペさんが語ったところによると、福島の農民たちがゲッティンゲンでの反原発集会に参加したという。この人たちは、私たち魔女の一人じゅんさんが書いた文章を読んでパーペさんのことを知り、わざわざ探しだして会いに行ったのだ。私たちのサイトが、今後もドイツと日本の人々の間の橋渡しができれば嬉しい。