テレビが作りだす危険な沈黙 - 原発事故後の日本
「ベルリン100°」というフェスティバルがある。このフェスティバルはパフォーマンス、演劇、朗読、ダンスなどの分野で、これからを嘱望されるタレントの発見という意味合いを持っており、今年で10回目を迎えた。通称ハウ(HAU)で知られるヘッベルテアーター・アム・ウーファーとゾフィーエンゼーレの2ヶ所で、金・土・日曜日の3日間、1時間ごとに次から次へと作品が演じられる。新しい才能や作品を発掘しようとするベルリンならではのフェスティバルだ。今年は2月21・22・23日に開催され、ベルリン在住の知人西原(さいばら)れんさんが「沈黙-エクストラ」という作品で登場した。
去年の夏、西原さんから原発に関する作品を作ろうと考えているとい話を聞いた。12月に会ったときは、話がもっと具体化していて、構想も決まり、「第4世界(Vierte Welt)」という小さなスペースで演じることまで決まったと聞いた。2月半ば、3月下旬の4日間、「第4世界」で公演するだけではなく、「ベルリン100°」に取り上げられてハウでも公演するという連絡をもらった。ハウと「第4世界」では違う作品になるので、両方とも見てほしいということだった。
まず2月21日、ハウで「沈黙-エクストラ」を見た。観客が劇場に入るのを、じっと舞台に置かれた机に座って待ちうける西原さん。昭和天皇が敗戦を告げる玉音放送で劇が始まる。西原さんが無条件降伏を受け入れた戦後日本の状況を淡々と語るのと同時に、スクリーンには当時の写真が映し出される。1953年、日本で初めてテレビ放送が始まり、力道山の中継に黒山の人だかり。古いメディアの新聞と新しいメディアであるテレビの両方を手にした正力松太郎、読売巨人軍の経営者でもあった同氏の写真などである。
1960年の日米安保条約に反対する学生や労働組合のデモの写真も映し出され、「人々は憤っていた」が、「安保反対運動は目に見える成果を得なかった」という西原さんのコメント。同じく1960年に現皇太子が誕生、「私も生まれた」というセリフで場内には笑いが広がった。そして「いつでも夢を」の歌声と同時に、歌詞の実に見事なドイツ語訳の字幕が流れ、カラオケと同じようにどこを歌っているかが赤い点で示されていく。ここからは歌謡史とでも思えるかのように、その当時流行った歌と、その時代の情景を示す写真が映される。家庭にカラーテレビが普及し始め、西原さんはテレビアニメで育った最初の世代として、「鉄腕アトム」、「パーマン」や「巨人の星」に代表される“スポ根アニメ”の一部が映される。パーマンになりたかった西原さんは、お母さんに縫ってもらった大きなマントを肩からかけて、机から飛ぼうとしたが失敗。「マントが悪いのではなく、お母さんの結び方が間違っていた」というところで、客席に笑いが広がる。
子どもたちがアニメを通してテレビ漬けになる様子。大人たちは、「大阪万博に原子力の灯を」という掛け声で営業運転を始めた敦賀原発1号機の電力が初めて万博会場に送電された様子に見入る。テレビを通して、「夢のエネルギー=原発」が徐々に日本人に刷り込まれていったことがよくわかる。万博の影に隠れてしまった70年安保闘争、ベトナム反戦運動。そして経済的発展とともに憤りを忘れていく日本人の姿が描かれる。万博を目指してひたすら走る日本人を象徴する歌が「365歩のマーチ」で、このドイツ語訳は素晴らしかった。
3月26日、「第4世界」で「沈黙」の公演を見た。のっけからハウで見た作品とは全く違っていた。「3.11」、「梅」、「風」、「海鳴り」、「セシウム137」などの言葉がわずかな間隔で次々と現れる。チカチカと動く画面が地震の揺れを暗示する中、西原さんが身体を揺らしながら、舞台上の唯一の家具である小さな机の下に忍び込む。東日本大震災当時、偶然帰国中だった西原さんに地震と津波のニュースは届くが、原発事故については届かない。そしてベルリンに戻ってきて初めて原発事故がメルトダウンに至っていることを知る。なぜ原発について何も考えてこなかったのかが、彼女自身の個人的体験と重ねながら演じられていく。
ハウでの作品とは違い音楽は全くなく、映像(永野レアさん担当)と彼女のセリフだけで構成されている。日本のメディアの中心人物として正力松太郎の存在が、ハウでの作品よりも大きく取り上げられている。子どもたちはアニメを通じてテレビ漬け、大人たちは娯楽番組を通じてテレビ漬けになっている。スクリーン上には6つのテレビ画面があるが、反戦デモや安保反対運動のニュースは端っこのテレビに小さく映され、残りの画面では娯楽番組が放映される状況。時代や社会の動きを追ったニュースが小さく扱われる日本のメディアの様子が暗示されている。
作品の終わりに、彼女は客席を回りながら「親の因果が子に報い」というセリフを何度も繰り返す。放射能漏れという最悪の事態を招いた大人たちが、将来を担う子どもたちに何を残そうとしているのか、彼女のセリフは私たち大人への厳しい問いかけであった。
ハウと「第4世界」の作品は、それぞれ異なった構成を持っていたが、共通しているのは、あの恐ろしい事故を受けてもなぜ沈黙するのかに対して、西原さんが自分なりの答えを出そうとしたことである。舞台芸術に関わる人として、そしてベルリンでドイツのメディアから情報を得る人間として、看過することのできない問題に真摯に取り組んだ作品であった。
ベルリンで発行されている全国新聞ターゲスツァイトゥング(taz、die tageszeitung)が、この作品をを取り上げて批評した。「人々は重要ではないテレビ番組についてはべらべらとおしゃべりするが、社会的問題になると口を閉ざす。メディアが覆いをかけているなかで、政治的に介入するための出口はあるのだろうか。西原れんは、出口はあると確信している。またデモに参加する人たちが出てきているのだ。そして彼女自身の中でも何かが動いている。『福島以後、私はもう沈黙しない』と」。
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