「ナチの犠牲者を追悼する日」― 連邦議会でのユダヤ人女性のスピーチ

永井 潤子 / 2021年2月14日

ナチス・ドイツ最大のアウシュヴィッツ強制収容所がソ連の赤軍によって解放されたのは、今から76年前の1945年1月27日のことだった。そのため1月27日は、ドイツでは、「ナチの犠牲者を追悼する日」と決められており、毎年連邦議会で記念行事が行われる。今年は、88歳と33歳の二人のユダヤ人女性が感動的なスピーチを行った。

1月27日を「ナチの犠牲者を追悼する日」と決めたのは、ローマン・ヘルツォーク元大統領(在職期間1994−1999)で、1996年のことだった。1995年のアウシュヴィッツ強制収容所解放50周年記念式典に出席することを許された当時のヘルツォーク大統領は、ドイツ人の責任を痛感し、この日を公式に「ナチの犠牲者を追悼する日」とすることを提案した。(ちなみに、その後国連も2005年10月の総会で、1月27日を「ホロコーストの犠牲者を追悼する日」と決定している)。

制定当初はヘルツォーク大統領をはじめドイツの歴代大統領が記念のスピーチを行ったが、その後はイスラエルのペレス元大統領やホロコーストのサバイバーたちが招かれるようになった。例えば2000年には、ノーベル平和賞受賞者のエリー・ヴィーゼル氏がゲストに招かれて、殺害されたユダヤ人の子供や母親たちの運命について語った。2011年にはシンティー・ロマの代表Zoni Weisz氏が、「ホロコーストの忘れられた犠牲者」について、訴えた。また2014年には、当時95歳のDaniil Granin 氏が、第二次世界大戦中のナチス・ドイツのレニングラード包囲作戦で、80万人もの人が餓死したと生々しい事実を紹介した。

記念日制定25周年を迎えた今年の連邦議会での行事は、コロナ危機のため招待者の数は限られたが、その様子は公共テレビで実況中継された。式典は、連邦議会のヴォルフガング・ショイブレ議長の挨拶で始まった。ユダヤの人たちが現在のドイツの地域に住み始めたのは、ドイツ国家が誕生するはるか以前、今から1700年前のことだということから話し始めた同議長は、ドイツとユダヤ人の長い歴史を振り返った。ドイツのユダヤ人たちは、ドイツ社会に溶け込もうと努力して、ドイツへの愛国心に満ちた人が多かったと指摘した。ナチス・ドイツの罪に対しては後世の世代も、二度とこうした悲劇を繰り返さないための責任があると強調した。さらに現在再び台頭しつつある反ユダヤ主義や外国人排斥の動き、右翼過激派のテロなどに対して警告を発し、ヘルツォーク元大統領によって制定された「ナチの犠牲者を追悼する日」は、今こそ重要な意味を持つとも述べた。ショイブレ議長は、ホロコーストの後、ユダヤ人にとって加害の国ドイツに住むことは耐え難く、多くのユダヤ人はアメリカやパレスチナ、のちのイスラエルなどに移住したが、今日のゲストは、筆舌に尽くし難い辛い経験をした後もドイツにとどまったユダヤ人と1990年代にドイツに移住してきた若いユダヤ人の二人だとして、両者を紹介した。

最初に登壇したシャルロッテ・クノーブロッホ氏は、1932年にミュンヘンで生まれた88歳の女性だ。かつてドイツユダヤ人評議会の議長を務めたクノーブロッホ氏の、最初の凜とした言葉は、「私は今誇り高きドイツ人として、皆様の前に立っております」というものだった。ドイツ人であることを強調したのだ。その上で、自分の歴史、すなわち、一人のドイツ人の過酷な運命を語り始めた。ヒトラーが政権についた1933年1月、彼女は生まれて3ヶ月だった。4歳の時ドイツ人の母親は去って行ったが、ユダヤ人男性との結婚を解消するよう執拗に求めたナチの圧力のためだった。以来祖母が母親代わりだったが、9歳の時、ナチは老人か子供のどちらかをテレージエンシュタットの強制収容所送りにすることを強要した。祖母は「しばらく居なくなるけれど、またすぐ帰ってくる」と言ったが、彼女は、それが何を意味するかわかっていたので、おばあさんにすがりついて泣いたという。その話をした時、クノ ーブロッホ氏の声は、泣き声になった。

父親は親戚の家にお手伝いに来ていたドイツ人女性の南ドイツ・フランケン地方の実家に彼女を預け、その女性の未婚の子供として、彼女はナチ時代を生き延びることができた。強制収容所から奇跡的に生還した父親は、一家の過酷な運命にもかかわらず、彼女にドイツへの愛を教えたという。父親は第一次世界大戦でドイツのために戦った愛国者で、「鉄十字勲章」の受章者だったが、その事実にもかかわらず、ナチの迫害を免れることはできなかった。成人した彼女は、やはり家族のほとんどを失ったユダヤ人男性と結婚して子供も生まれ、ドイツは再び、彼女の故郷となった。自分たちを迫害した人たちのいるミュンヘンには、二度と行きたくないと思っていたが、新しい家庭を築いたのは、そのミュンヘンでだったという。

ドイツの現状に警鐘を鳴らすクノーブロッホ氏

クノーブロッホ氏は、戦後誕生した民主的なドイツ連邦共和国が、ユダヤ人の安全のために多くを成し遂げたことに感謝するとともに、最近また社会の中で反ユダヤ主義が公然とみられるようになったことに警鐘を鳴らした。コロナ否定主義者たちが、厳しいコロナ規制措置を決めたメルケル首相をヒトラーにたとえて独裁者と呼んだことに対して、何百万人もの人が犠牲になったナチの独裁体制を過小評価するものだと怒りを表明した。そして憎しみや差別の言葉がソーシャルメディアなどに蔓延する傾向に警告し、連邦議会議員に対して、こうした風潮ともっと積極的に闘うよう求めた。クノーブロッホ氏は連邦議会の右翼ポピュリズム政党、「ドイツのための選択肢(AfD)」の議員たちに向かって、「あなたたちの全員がそうだとは思わないが、一部は、右翼過激派の思想を抱いている。“永久に過去の思想を持つ人たち”の戦いは、76年前に敗北した」と言い放った。

クノーブロッホ氏は演説の最後に、追悼のこの日に3つのことを言いたいと話した。まず第一に何百万人もの犠牲者のことを決して忘れないでほしいということ。第二には、これまで時代の証言者たちが、想像を絶する恐ろしい体験について話してきたが、これからは、記憶の作業をあなたたちの手に委ねる、私たちをどうか忘れないでいただきたい、ということ。第3は、若い人たちに対するメッセージで、「あなた方自身の心ほど、良いコンパスはありません。誰を愛し、誰を憎むべきかなど、他人の意見に左右されないようにしてください」というものだった。

「私の話を聞いてくださって、ありがとう」と話し終えたクノーブロッホ氏に対し拍手は鳴り止まず、AfDの議員以外はスタンディングオーベーションで応えた。

続いて33歳のジャーナリスト、マリナ・ヴァイスバンド氏が、現在のドイツに暮らす若いユダヤ人を代表する形で、彼女の体験を語ったが、話の中で一貫していたのは「ただ人間でありたい」という彼女の望みだった。ユダヤ人としてではなく。1987年にウクライナの首都キエフで生まれたヴァイスバンド氏は、1994年に家族とともにドイツに移住してきた。2011年5月から2012年4月までは海賊党の幹事長を務めたが、現在は緑の党の党員だ。

ヴァイスバンド氏は、ウクライナでは一家は本来の名前ではなく、別の名前を名乗っていたということから話し始めた。ユダヤ系の名前によって悪影響があることを恐れてのことだったという。ホロコーストを生き延びた祖父は、ウクライナの雰囲気を注意深く見守ってきたが、1993年のある日、「今すぐ、この国を出なければならない」と言いだした。知らない国に行くのを不安がった幼いヴァイスバンド氏を父親は膝に抱いて、こう言ったという。「ドイツではね、私たちがユダヤ人だということに誰も関心を持たないよ。あそこでは、ただの人間でいられる」。ドイツに移住した一家は元のヴァイスバント姓を名乗るようになった。ところがそのドイツでも、「ただの人間でいられる」のは、特権的なことだと感じさせられるという。

彼女によると、今ドイツで暮らすユダヤ人のほぼ90%は、鉄のカーテンが開いた後、彼女たちと同じように旧ソヴィエト連邦の国々から移住してきた人たちだという。彼女の一家も移住当初、ドイツでの公私にわたるさまざまな支援を受け、そのことに感謝しているが、日常生活の中で、ユダヤ人であることを意識させられることが多いという。例えば、ミュンスター大学の学生時代、ユダヤ教の勉強などをするため、ユダヤ人学生の集まりを作ろうとして地元の新聞に情報を載せようとした時には、安全上の理由から場所や日時を公表するのをやめるよう警察から言われた。警察は好意のアドヴァイスをしたのだが、他の学生たちにとって当たり前のことがユダヤ人学生にはできないことを知ったという。今では、ユダヤ人男性はなるべくユダヤ人であることを示すキッパ(注:民族衣装の男性用帽子)を被らず、女性たちはダビデの星をかたどったペンダントなどを公然とはつけず、なるべく目立たないようにして、警官に守られている学校やシナゴーグを訪れるのが、現実だという。そして彼女の専門は心理学や教育学なのに、そういう問題よりも反ユダヤ主義についてインタビューを受けたり、イスラエルの政策について弁護したりしなければならない立場に立たされることが多いという。また、ユダヤ人とひとくくりに語られるが、その実態は実にさまざまな背景を持っていることもなかなか理解されない。さまざまな背景を持つユダヤ人もナチの迫害を受けたという共通の体験があり、祖父母の世代も、父母の世代も、そしてそれに続く世代もその体験が悪夢になり続けている。ナチの犯罪を問うことに終止符を打つべきだという議論は、ユダヤ人にとっては悲しみと苦痛を伴うものだった。

ドイツの未来に貢献したいと語るヴァイスバント氏

「自分にとってドイツでユダヤ人であることは、アンビヴァレントな意味を持つ」と、ヴァイスバント氏は言う。ドイツ社会に全面的な結びつきと連帯を感じる一方で、不安とフラストレーションも感じているからだ。そのヴァイスバント氏はしかし、スピーチを次のように締めくくった。

しかし、ここに我々を結びつける要素が存在します。私たちは今日ともにショアの犠牲者の追悼をしました。幸いなことに私たちはショアを体験した人の話を聞くことができました。しかし、彼女は体験を話すことのできる最後の世代だと言えます。私たち後の世代は、時代の証言者たちが我々の前から次々に姿を消していくという事実に直面しています。私たちは、体験者たちの追悼の思いを引き継ぎ、生き生きとしたものとして、次の世代に伝えていかなければなりません。

そして私たちは、「なぜ古いものを引きずり続けなければならないのか?」という問いにも答えを見出さなければなりません。私たちは過去から学んだ教訓を未来に伝える義務を負っています。私たちは時代の生きた証人ではありませんが、ショアの出来事を追悼していかなければならないのです。私たちは祖父母や曾祖父母の肖像画の下で、新しい社会を築かなければならない世代です。いつの日か、ユダヤ文化を生きながら、それが自明のことと見なされるような社会を築くことです。それが実現した時、初めて私たちは「ただ人間として生きることができる」のです。

こう話し終わったヴァイスバント氏に、連邦議会議員たちは万雷の拍手を惜しまなかった。

最後に、全国新聞「フランクフルター・アルゲマイネ」の「ナチの犠牲者追悼の日」についての「我々の国に注意せよ」というタイトルの社説を紹介したい。

「どうしてあのようなことが起こりえたか?」、この苦痛に満ちた永遠の問いに残念ながらもう一つの問いを加えなければならないようだ。すなわち、「我々は過去から何も学ばなかったのか?」という問いを。我々は、ヨーロッパのユダヤ人に対する民族虐殺の罪について何十年にもわたって議論してきた。さらに国家として追悼の文化を持ち、ナチの支配体制についての幅広い学校教育も行ってきた。にもかかわらず、極右のテロがぶり返した。成熟した民主主義国となった筈のこの連邦共和国とその機関について全面的な疑惑を抱く理由は全くないにしても、政治テロの発生やコロナ否定者や議会の極右派によるジェノサイドの過少評価という現実に直面して、呆然とせざるを得ない。

ナチの悪逆非行についてさらに解明していく必要があるが、その際恐ろしい事実を伝えることを忘れてはならない。極悪非道の犯罪は、はるか彼方の不気味な世界の悪魔によって行われたのではなく、あなたと私のような人間によって行われたという事実である。それも自由な教育を受けたはずの法律家や医師も含めた人間によって。略

シャルロッテ・クノーブロッホ氏が、第一次世界大戦でドイツ軍兵士として戦い、鉄十字勲章を授与された父親も、迫害を免れなかったこと、それにもかかわらず、その父親が彼女にドイツへの愛を教えたと話したのを聞いて、誰しも心を揺さぶらされたはずである。「私は誇り高きドイツ人として、あなた方の前に立っています」。このようなことを誰が今まで連邦議会で言っただろうか?しかも確信に満ちた声で。国旗を振り回すのが愛国者ではない。人種差別主義者は真の愛国者ではない。愛国者を自称する者が、どうして同胞を迫害するようなことができたのか。クノーブロッホ氏は、「“我々の国”に注意を怠らないように、そして“我が国”に神のご加護がありますように」と語った。この言葉は我々全員に向けられた警告の言葉である。我々すべてを結びつけている帯を、二度と切断してはならない。

「ナチの犠牲者を追悼する日」の連邦議会での式典の模様を書きながら、私は自分の生まれた国のことを考えざるを得なかった。戦時下の犯罪について、南京大虐殺、アジアの多くの女性たちを耐え難い運命に陥れた「慰安婦」問題、強制連行の問題、その他アジア各国でのさまざまな戦時下の犯罪について、日本の国が被害者に対して心から謝罪したことがあっただろうか。まずは事実を事実として認めることから始めなければならないが、その事実を教科書に記載することすら拒む人たちが長年政権を担当し、それどころか事実を否定する歴史修正主義者が増えて、社会がそれを受け入れているように見えるのが、今の日本ではないだろうか。過去の過ちから学ぶことをしない国に、未来はあるのだろうか?少なくともアジア各国との間に真の友好関係を築くためには、国としての誠実な態度が必要不可欠だと私には思える。

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