心を揺さぶるホロコーストを生き延びた人の証言
1月31日、ドイツの首都ベルリンの中心部にある旧帝国議会の建物に、半旗が掲げられた。この中にある連邦議会本会議場で、ナチズムの犠牲者を追悼する式典が行われたからだ。式典ではヴォルフガング•ショイブレ連邦議会議長の演説に続いて、来賓でイスラエルの歴史学者ザウル•フリードレンダー氏(86歳)が、 愛する親と引き裂かれた時の思いを、静かに語った。
1945年1月27日、ナチによるユダヤ人大虐殺の象徴となったアウシュヴィッツ強制収容所が、ソ連軍によって解放された。それから半世紀あまり経った1994年に連邦大統領に就任したロマーン・ヘルツォーク氏は、 同じ過ちを2度と繰り返さないために、ナチ時代の加害と被害を想起する文化を終わらせてはいけないと訴え、1月27日をナチズムの犠牲者を追悼する記念日にすることを呼びかけた。そして1996年1月3日、大統領布告により、この日は法的記念日に制定された。
それ以来、連邦議会は毎年1月27日前後に、ナチズムの犠牲者を追悼する式典を、国家元首である連邦大統領、連邦参議院議長、行政の長である連邦首相、司法の長である連邦憲法裁判所長官や各州の首相を招いて行っている。式典ではたいてい、主催者である連邦議会議長の他に、大統領もしくはナチの迫害を受けた人たちを代表する来賓が、演説を行うことになっている。この日の式典には、ドイツ、フランス、チェコ、ポーランド、ロシア、イスラエルなどの若者78人も招待された。連邦議会が毎年式典に並行して主催している、ナチの歴史を一緒に学ぶプログラムに参加した若者たちだ。
ショイブレ議長の演説は、「人の名前は、その人の一部です。また、その人がどの家族や、どの共同体に属すかを示すものでもあります」と、名前の話で始まった。そして、強制収容所の中でナチは収容者に番号をつけ、彼らの名前を消し去り、それがその人の人間としての存在、しいては、その生命の存在を否定することにも繋がったと語った。ショイブレ議長が名前の話をしたのは、この日の来賓であるザウル•フリードレンダー氏が、ナチの迫害を逃れるために、そして新しい国で新しい人生を切り拓いていくために、何度か名前を変えねばならなかったからだろう。具体的にいうと、1932年にプラハで生まれた時につけられた名前はパヴェル、ナチの迫害を逃れてフランスに逃げてからはポール=アンリ、そして新しく誕生した国家イスラエルに渡ったときにはシャウルと、氏の名前は変わってきた。しかし今は、フランス時代のポール(Paul)とシャウル(Schaul)を組み合わせて、ザウル(Saul)という名前を使っている。
ショイブレ議長の演説の後、プラハの弦楽四重奏団による演奏が行われ、それに続いて、白髪で小柄なフリードレンダー氏が演台に向かった。フリードレンダー氏はナチ時代の研究、とりわけホロコースト研究の専門家で、歴史的事実と、書き残された日記や手紙を通じて得た加害者や被害者個々人の視点を融合させるという新しい手法を切り拓いたことで知られている。この日も、1942年2月25日付のあるドイツの新聞が「ユダヤ人は絶滅されるだろう」という見出しの記事を掲載していたこと、そして同年6 月18日の手紙で、現在ベラルーシの領土となっているある町に滞在していたドイツ国防軍のある予備兵が、1300人のユダヤ人の男女や子供達が射殺されたことを家族に知らせていたことなどを紹介し、多くのドイツ人は、ナチがユダヤ人をどんな目に合わせていたのかを知っていたはずであると指摘した。
しかし彼の歴史学者としての話よりも、ユダヤ人の少年としてのフリードレンダー氏自身の体験の方が、会議場の人たちの心を揺さぶった。氏の家族は1939年、ナチに占領されたプラハからパリに逃げたが、フランスでもユダヤ人の強制収容所への移送が始まったため、氏の両親はアルプスを越えて、スイスに逃げることを決意した。しかしまだ10歳に満たなかったフリードレンダー氏を連れて逃げるのは危険があるとして、氏をフランスのある街のカトリック系の寄宿舎に預け、両親は立ち去った。どうしても親と離れたくなかったフリードレンダー氏は寄宿舎を抜け出し、病院に隠れていた両親を見つけ出したが、両親は再び、氏を寄宿舎に送り返した。「手足をバタバタさせて抵抗する少年を、私の両親はどんな気持ちで見ていただろうか?」と、フリードレンダー氏は問いかけた。結果的には、それが氏と両親の最後の出会いとなったという。
1942年9月29日、フリードレンダー氏の両親を含めて15人のユダヤ人がフランスからスイスの国境を越えようとし、スイスの国境警備兵に発見された。過酷な逃亡から子供を守るために、氏をフランスの寄宿舎に残してきた氏の両親だが、皮肉なことにスイスはその日を含めた前後一週間のみ、子供を連れた家族にはスイス入国を認め、大人だけのグループはフランスに追い返すという政策をとっていた。そのためフリードレンダー氏の両親はフランスの警察に引き渡され、アウシュヴィッツ強制収容所に送り込まれてしまったのだった。氏がそのことを知ったのは、もちろん戦争が終わってからのことだ。両親を含めて同じ列車で移送された1000人のうち、ホロコーストを生き延びたのは、たった4人しかいなかったことを、氏はのちの研究で知った。
(アウシュヴィッツまでの)地獄のような3日間の移送の間、両親は一緒にいられたのだろうか。もしそうだとすれば、どんな言葉を交わしたのだろう。そして何を考えたのだろう。何が待ち受けているのか、知っていたのだろうか。
氏の頭から離れないのは、史料には残されていない、両親の最後の日々のことだ。
フリードレンダー氏は、この追悼式典で話をしてほしいという連邦議会からの招待に応じた理由を、次のように語った。
それは、 今のドイツがかつてのドイツとは根本から変わったと、私は見ているからです。戦後何年もかけてなし得た変化のおかげで、ドイツはここで私が語ったような危険(注:反ユダヤ主義や人種差別主義)に対する、強力な防波堤の一つとなりました。 あなた方ドイツ人が、確固たる道徳心を持ち、これからも寛容で誰も疎外せず、人道と自由、つまりひと言で表せば、本当の民主主義のために闘ってくださることを、私たちは望んでいます。
フリードレンダー氏の話はもちろんだが、アジアにおける戦争加害国出身の人間として、私にはショイブレ議長の次の言葉も印象に残った。
自国の歴史を、選んだり隠したりすることはできません。歴史は現在の前提となるものです。そして歴史とどう向き合うかは、その国の将来を作る基礎となるのです。ドイツの犯した罪から、忘れてはならないという、私たちの責任が生まれます。それは命を失った人たちに敬意を表すためであり、彼らに尊厳を取り戻すためでもありますが、私たちのためでもあるのです。ですから、(加害責任や被害者を)想起するという文化は、市民社会の問題だけではなく、国家に課せられた課題でもあるのです。そしてそれを崩そうとする者は、私たちの国家の土台を破壊しようとする者なのです。