強制収容所を生き延びた女性、連邦議会で体験を語る

永井 潤子 / 2016年2月14日

Gedenkstunde des Deutschen Bundestages zum Tag des Gedenkens an die Opfer des Nationalsozialismus. Bundestagspräsident Prof. Dr. Norbert Lammert, CDU/CSU, hält die Begrüßungsansprache, Prof. Dr. Ruth Klüger (hier am Rednerpult) die Gedenkrede. Der RIAS-Kammerchor singt nach den Texten von Johann Esser und Wolfgang Langhoff und der Vertonung von Rudi Goguel die "Moorsoldaten". Bei der Gedenkstunde sind die Verfassungsorgane Bundeskanzlerin Dr. Angela Merkel, CDU/CSU, Bundespräsident Joachim Gauck, und Bundesratspräsident Stanislaw Tillich, CDU/CSU, zugegen. Ordnungsnummer: 3716294 Name: Klüger, Ruth Ereignis: Gedenkstunde Gebäude / Gebäudeteil : Reichstagsgebäude, Plenarsaal Nutzungsbedingungen: http://www.bundestag.de/bildnutz Es werden nur einfache Nutzungsrechte eingeräumt, die ein Recht zur Weitergabe der Nutzungsrechte an Dritte ausschließen.

 

深刻な難民問題を抱え、メルケル首相の政策に対する批判がかつてないほど高まっているドイツだが、その間も「過去の歴史との取り組み」がないがしろにされてはいなかった。ナチの犠牲者追悼の日である1月27日、連邦議会の記念式典では、ホロコーストを生き残ることのできた小柄な84歳の女性が、その少女時代の過酷な体験を話した。

ナチスドイツの絶滅収容所として知られるアウシュヴィッツ強制収容所がソ連の赤軍によって解放されたのは、1945年1月27日のことだった。そのことを記念してドイツでは1996年以降、1月27日が「ナチの犠牲者を追悼する日」と決められている。当時のヘルツォーク大統領の提案によるものだった。国連も2005年以降、その日を「ホロコーストの犠牲者を追悼する国際デー」としている。

今年の「ナチの犠牲者を追悼する日」に連邦議会で少女時代の強制労働の体験を話したのは、オーストリア出身でアメリカ在住の独文学者で作家のルート・クリューガーさん。クリューガーさんは、1931年10月30日、ウイーンのユダヤ人医師の家庭に生まれた。1938年3月、ナチスドイツがオーストリアを併合すると、ユダヤ人迫害がひどくなり、父親はフランスに逃れるが、結局兄とともにナチのユダヤ人絶滅政策の犠牲となった。彼女自身は11歳の時母親とともに逮捕され、まず、テレージエンシュタット(旧チェコスロヴァキア領)の強制収容所に送られた。その後絶滅収容所のアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所(ポーランド領)に移送され、その後、グロース・ローゼン強制収容所(旧ドイツ領ニーダーシレジア、現ポーランド領)に付属するクリスティアンシュタットで強制労働につかされた。しかし、ドイツの敗戦直前に母親とともに逃亡に成功し、1947年にアメリカに亡命した。クリューガーさんが1992年にドイツ語で発表した体験記、『生き続ける(weiter leben)』は大きな反響を呼んだ。

連邦議会でのクリューガーさんの話は、ある女性のおかげで生き延びることができたことから始まる。

強制労働というと、誰しも大人の男性を思い浮かべて、栄養失調の小さな少女のことなど考えもしないでしょう。しかし、私は強制労働につくことによって、死をまぬがれたのです。1944年夏のアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所、この時にはもうガス室がフル回転していました。そんな中15歳から45歳までの女性収容者のうち働く能力のある人が、軍需工場で働くために選ばれることになりました。当時まだ12歳だった私が選別の行列に並んでいると、そばにいた同じ収容者の若い女性から耳打ちされました。2分後、選別担当の親衛隊員に「何歳か?」と聞かれた私は、「15歳」と答えていました。「ずいぶん小さいな」という彼に、この女性は大胆にも私がしっかりした足をしていると主張したのでした。「ご覧なさい。あの足を。彼女は働けます」。この言葉に親衛隊員は肩をすくめたけれど、働く方に選んだのです。私が生きのびることができたのは、この時1度しか会っていない、この若い親切な女性との数分間の偶然の出会いのおかげです。選ばれなかった残りの人たちは、その直後にガス室送りになったからです。選ばれた私たちは労働収容所のクリスティアンシュタットに送られました。死の恐怖からのがれて、最初はホッとしましたが、そのポジティブな気持ちはすぐ消え失せました。

飢えに苦しむ彼女に課せられた労働は、森の中での開墾や切り株を掘り起こして運んだり、レールを敷いたりという、男性がするような肉体的な重労働だった。何かを建設するようだったが、もちろん強制労働者たちにはなんのためという説明はなく、彼女たちも無関心で、ただ課せられた労働をするだけ、できるだけサボることを考えた。とびきり寒い石切場での重労働もあった。母親を含む多くの女性たちは、弾薬製造工場での労働についたが、母親の世代の女性たちは職業を持って働いたことはなく、栄養不足で体力のない女性たちの労働力などたいしたものではなかった。ナチが強制労働者を「人間的資材」と呼んだように、強制労働者、特に女性は彼らにとって昔の奴隷よりも価値のないもので、飢えと過酷な労働で一人が死ねば、代わりはいくらでもあるのだった。そこへいくと職業的な訓練を受けている男性たちは役に立つため、例えば同じ弾薬工場で働いていたフランス人男性たちは女性たちより食事も良く、大事にされていた。彼らは機械に対する知識もあり、親衛隊員たちがなかなか発見できないような小さなトリックで機械を動かさなくするなど巧妙なサボタージュを行っていた。

クリューガーさんはそうした強制労働の実態をいろいろ具体的に述べた後、強制労働者の存在を多くのドイツ人が知っていながら、彼らの苦しみや悲しみに思いを巡らす人が戦争直後にはほとんどいなかったこと、戦後何年も経ってから年配のドイツ人男性がポーランド人について「ああいう寄生虫的な外国人はガス室送りにするべきだ」と言ったことなどを挙げ、戦後のドイツ人の態度を批判した。

女性である私の心に特に突き刺さったのは、クリューガーさんが「強制労働者の女性たちには毎月あるべき生理がありませんでした。そういうものは健康な生活をして、もっと栄養のあるものを食べている女性にしかないのです」と言った時だった。彼女はまた、オーストリアにあった唯一の強制収容所、マウトハウゼンなど特定の強制収容所には、「特別棟」と呼ばれる一画があり、そこでベルリンの北にあったラーベンスブリュック女性強制収容所から選ばれた女性たちが、収容所内の男性のために性奴隷として働かされていたことにも具体的に言及した。そこを訪れることができたのは、ナチにとって特別の働きをした男性収容者たちで、女性たちは列を成してくる大勢の男性を相手にしなければならなかった。彼女たちの仕事は強制労働などというものではなく、それこそ「性奴隷」という言葉がふさわしかった。こうした非人間的な行為を強いられた彼女たちの存在と実態は長年知られていなかったが、それは彼女たちがそのことを恥じて口をつぐんでいたからである。彼女たちについての研究はようやく始まったばかりで、強制収容所の生存者としての尊厳も彼女たちには認められてこなかった。彼女たちは戦後も売春婦とみなされ、強制労働者とはみなされなかった。従って補償の権利も認められなかったという経緯がある。こうした差別と犯罪のもみ消しには、古くからの女性蔑視が影響している。「肉体的、精神的に大きな痛手を被った彼女たちの名誉は剥奪されたままで、きょう、ナチスドイツの強制労働者たちに思いを馳せるとしたら、その中に彼女たちも含めなければなりません」とクリューガーさんは強く訴えた。このような発言ができないまま、この世を去った女性たちの思いをクリューガーさんは連邦議会という場で代弁したのだった。戦争中日本によって苦しみを受けた被害者たちが日本の国会で首相や議員たちの前でその過酷な体験を話すことがあっただろうか。私は彼女の言葉を聞きながら、日本軍の元「従軍慰安婦」の女性たちに対する日本政府の対応を思い浮かべざるを得なかった。

ナチスドイツの犯罪的行為を縷々述べたクリューガーさんは、次のような言葉で講演を締めくくった。

これまで私は、ナチ支配下のヨーロッパでの「現代の奴隷」というべき強制労働について、そして戦後のドイツが、はじめは罪悪感に蓋をしてきたことについて長々と述べてきましたが、以来、新しい1世代が、いや、2世代か3世代がここに生まれています。そして80年前には歴史上最悪の犯罪を冒したこの国が、今日世界の拍手を浴びています。開いた国境、シリアなどからの難民受け入れに示された寛容さに対する拍手です。私はそのプロセスを最初は不思議な思いで見守っていましたが、その気持ちが感嘆、尊敬の念に変わりました。皆さまのご招待を喜んで受け入れた主な理由は、そこにあります。控えめで、なおかつ勇気ある言葉、「我々はやり遂げます」という言葉によって、今日、昔とはちがう模範的な国となったドイツの首都に来て、こうしてかつての国家による犯罪について話す機会を与えられたことに感謝いたします。

講演が終わると、ガウク大統領、メルケル首相をはじめ、連邦議員たちは総立ちになり、拍手は長い間続いた。この日、会場にはドイツだけでなくヨーロッパ各国の若者約100人も招かれ、歴史の証人の感動的な講演をドイツの政治家とともに聞いたのだった。

Gedenkstunde des Deutschen Bundestages zum Tag des Gedenkens an die Opfer des Nationalsozialismus. Bundestagspräsident Prof. Dr. Norbert Lammert, CDU/CSU, hält die Begrüßungsansprache, Prof. Dr. Ruth Klüger (re neben dem Rednerpult) die Gedenkrede. Der RIAS-Kammerchor singt nach den Texten von Johann Esser und Wolfgang Langhoff und der Vertonung von Rudi Goguel die "Moorsoldaten". Bei der Gedenkstunde sind die Verfassungsorgane Bundeskanzlerin Dr. Angela Merkel, CDU/CSU, Bundespräsident Joachim Gauck, und Bundesratspräsident Stanislaw Tillich, CDU/CSU, zugegen. Übersicht. Ordnungsnummer: 3716288 Name: Klüger, Ruth Ereignis: Gedenkstunde Gebäude / Gebäudeteil : Reichstagsgebäude, Plenarsaal Nutzungsbedingungen: http://www.bundestag.de/bildnutz Es werden nur einfache Nutzungsrechte eingeräumt, die ein Recht zur Weitergabe der Nutzungsrechte an Dritte ausschließen.

この講演についてドイツの全国新聞「フランクフルター・アルゲマイネ」は、一面で「ルート・クリューガー氏、メルケル首相の難民政策を賛美」というタイトルの記事を大きな写真付きで載せたが、8面の「英雄的」というタイトルの社説では、次のように書いていた。

ルート・クリューガー氏は、連邦議会の講演で、世紀の犯罪に責任のあるドイツは今日、開かれた国境と難民に対する寛容さで世界から拍手を浴びていると強調した。確かに世界の注目が今この国に集まっている。この国はナチ国家とは全く違う国家であろうとしている。クリューガー氏がメルケル首相の「我々はやり遂げます」という言葉を英雄的なスローガンと称したのは妥当である。しかし、我々は正確には何を成し遂げるのだろうか?メルケル首相は世界から拍手を浴びることを義務付けられているわけではなく、ドイツ国民の幸せ、繁栄の実現に責任を負っている。開かれた社会や寛容さも、ドイツ国民の幸せと繁栄が根底にあってのことである。

なお、私は7年前、現在ポーランド領になっているグロース・ローゼン強制収容所跡を訪ねたことがある。今は記念館になっているが、この強制収容所の収容者たちは近くの石切場で、花崗岩の採掘に従事させられた。その巨大な石切場跡を見ながら、案内の人から「石切作業は大変な重労働で、栄養状態の悪い強制労働者たちの中には疲労から死亡する人も少なくなかった」と聞いた。この石切場で、やせ細った少女のクリューガーさんも働かされたと知ったのは、私にとっては衝撃的なことだった。

2 Responses to 強制収容所を生き延びた女性、連邦議会で体験を語る

  1. えびすドリーム says:

    ナチス時代の負の歴史を直視して、真摯に受け止めているメルケル首相、そしてドイツ連邦議会は尊敬に値しますね。そして日本の現状との違いに愕然とします。日本人もドイツの認識に気付けばいいんだけどなぁ・・・

  2. えびすドリーム says:

    フクシマ事故の後で、脱原発を決めたドイツと、当事国なのに何も変わらない日本。子供の貧困や格差が広がり、大学の高額な学費が問題になっているのに、決してドイツのように大学まで無償にしようという声は上がらない日本・・・直面する生活面でこうだから、まして過去の戦時中の問題には尚更無関心なのが日本なんだろうな。ドイツと日本、まったく別の惑星のように感じますよ・・・でもクルマは日本製のほうが故障しなくていいかも(笑)