難民たちによる“サッカー・ワールドカップ”

あきこ / 2015年9月27日

 

Gute Hoffnung_Mannschaften

”サッカー・ワールドカップ”の選手たち © あきこ

押し寄せる難民への対応に関して、ドイツ国内ではメルケル首相率いるキリスト教民主同盟の姉妹政党であるバイエルン・キリスト教社会同盟から、首相への批判がちらほらと聞こえてきている。9月13日にはデメジエール連邦内務大臣が国境での検問を行うことを表明した。難民をめぐって政治は日々変化している中、ベルリンでは9月13日、難民たちによる“サッカー・ワールドカップ”が行われた。

この競技会を主催したのはベルリン成人大学である。成人大学(Volkshochschule)は、成人教育を目的として、地方自治体や公共団体が公的な補助を受けて運営している。ドイツ全国ほとんどの都市にあり、様々な講座が提供されている。公共の機関が運営するカルチャーセンターとでも言えばよいだろうか。この成人大学が、難民やドイツに来た移民にとっても大きな役割を果たしている。難民と認定されれば、ドイツ社会への統合を促すために、ドイツ語の講習が義務づけられる。連邦移住・難民庁の認定を受けた語学学校が難民のためのドイツ語講習を実施しているが、成人大学はその一つである。多くの難民や移民たちが、成人大学でドイツ語を学んでいる。

9月13日、ベルリン西部にあるゼメリング・スポーツセンターで行われた“サッカー・ワールドカップ”は、ベルリン各地にある成人大学でドイツ語を学ぶ難民たちが結成した6チームが参加して行われた。ゼメリング・スポーツセンターは、1964年に開館した体育館で、バスケットボール、ハンドボールといったインドアスポーツの競技場、建設当時は西ベルリンでは最大の屋内スポーツの競技施設(座席数2200)である。

Dilek Kolat

挨拶するディレク・コラット相 © あきこ

会場に入ると、青や黄色のシャツを着た選手たちの練習している姿が見えた。ハンドボールのようなコートなので、隣にいた女性に「サッカーではなくハンドボールなのですか」と尋ねたところ、「サッカーですよ」という答え。「室内サッカー」と呼ばれる競技だということがわかった。やがて、ベルリン州労働・女性・統合省のディレク・コラット相がやって来た。コラット相自身、3歳でトルコからベルリンに移住したという背景を持っている。コラット相が、各チームの選手一人一人と握手を交わし、選手たちと記念撮影を行った後、開会式が行われた。主催者として成人大学の理事長が今回の競技会開催の経緯を説明した。それによると、成人大学のドイツ語講座に参加している難民たちからサッカーをしたいという要望があり、ベルリン市内の成人大学が希望者を募り、出身国別にチームを結成したということであった。コラット相は、「ドイツのナショナルチームは移民の背景を持った選手なしには成り立たない。近い将来、難民の中からドイツの代表選手が生まれる日がくることを希望する」という言葉で挨拶を終えた。

この日、アフガニスタン、エルトリア、シリア、エジプト、アルバニアとドイツの6カ国チームがリーグ戦で優勝を争った。ドイツ・チームの選手は、ドイツの国籍を得た難民や移民たちである。優勝カップは「希望カップ」と名付けられ、選手たちが着るユニフォームのシャツにも「希望カップ」と書かれていた。

私は、アフガニスタン対エルトリア(1:1の引き分け)、シリア対エジプト(0:2でエジプト)、アルバニア対ドイツ(0:4でドイツ)の第1次リーグ戦を見ただけなので、最終的にどのチームが優勝したかはわからない。重要なことは、どの国のチームが優勝したかということよりも、選手たちがこの競技会に参加し、「ドイツに来てよかった」と思っているかどうかだろう。戦火や迫害を逃れてドイツにやって来た難民たちが、成人大学などでドイツ語を学び、ドイツ社会に溶け込もうと努力をしている。そして受け入れる側として、ドイツも難民たちを受け入れるための体制を、政治、社会、市民個人が作り上げようと努力している。

ベルリンの姉妹都市の東京にある体育館で、難民たちによるサッカー大会が開かれることを想像してみた。難民たちに日本語を教える学校がサッカー大会を主催し、そこに東京都の統合担当局長が来て、「難民の中から日本のナショナルチームの選手が生まれるという希望を持つ」という挨拶をするところを想像してみた。「希望カップ」を目指して、多くの難民たちがサッカーに興じるところを想像してみた。ところが、現実が想像を打ちのめす。日本の法務省の発表を見ると、2014年度に日本政府が認定した難民の数はわずか11名となっている。これではサッカー大会もできない。

ベルリンのゼメリング・スポーツセンターでの“サッカー・ワールドカップ”は小さな催しにすぎなかった。しかし、「希望」という言葉がまだ生きていることを実感する催しだった。

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