70年目の敗戦記念日を迎えたドイツ

永井 潤子 / 2015年5月24日

ドイツが無条件降伏したのは、1945年5月8日のことだった。戦後70年の節目にあたる今年、ドイツ各地では、さまざまな記念行事、講演や歴史の展示、文化的な催しなどが行われてきたが、首都ベルリンでは、5月8日午前9時から、ドイツ連邦議会の本会議場で連邦議会と連邦参議院合同の敗戦70周年記念式典が行われた。

ドイツの敗戦記念日というと、1985年、戦後40周年に当たって旧西ドイツのフォン・ヴァイツゼッカー大統領が当時の首都ボンの連邦議会で行なった演説(邦訳『荒れ野の40年』)が有名だが、ドイツの大戦終結の公式記念式典で毎回大統領が演説すると決まっているわけではない。首相が演説することもあれば、著名な外国人ゲストを招くこともある。統一5周年の1995年には、連合国の4カ国の首脳が揃って出席しただけではなく、第二次世界大戦で特に甚大な被害を受けたポーランドのバルトフチェスキー外相が特別講演を行った。同外相は第二次世界大戦中ナチス・ドイツへの抵抗運動に参加して逮捕され、アウシュヴィッツ強制収容所に一時収容されたが生き残り、戦後はドイツとポーランドの和解のために尽力した政治家であり、歴史家であり、ジャーナリストでもある。深刻な体験を余儀なくされたポーランドの外相のこの時の演説は多くの人に感銘を与えた。

今年の連邦議会の記念式典は、まず、連邦議会のラマート議長の挨拶で始まった。

5月8日は、ドイツ人によって始められた恐ろしい世界大戦が終わった日であるが、この戦争では5000万人が死亡した。ドイツ軍に占領された国々の国民や筆舌に尽くしがたい迫害を受けたヨーロッパのユダヤ人にとっては、5月8日は、文字通り解放の日だった。我々にとっての5月8日は、ドイツ軍の前例のないほどの壊滅作戦の犠牲になった何百万人もの人たちを追悼し、ドイツをナチのテロ体制から解放するために戦い、大きな犠牲を払った西側連合国軍とソ連軍の兵士たちに敬意を表す日である。我々の国が犯した大きな罪にも関わらず、戦後のドイツが国際社会に受け入れられたことは、驚くべきことであった。

ラマート連邦議会議長は5月8日の意味について要旨このように挨拶した。

今年の記念式典で講演をしたのは、ドイツの著名な歴史家、ハインリッヒ・アウグスト・ヴィンクラー氏だった。19世紀、20世紀のドイツ、ヨーロッパの歴史が専門のヴィンクラー氏は 現在73歳、ベルリン自由大学(西ベルリン)、南西ドイツのフライブルク大学、ドイツ統一後はベルリンのフンボルト大学(旧東ベルリン)などで教授を勤めた学者だが、いわゆる「象牙の塔」に閉じこもって研究だけしているタイプの学者ではない。膨大な学問的著作を表す一方で、その時々の政治にも積極的に発言してきた。生まれたのは、旧ドイツ領東プロイセンのケーニヒスベルク(現在のロシア西部、ポーランドとリトアニアに挟まれた飛び地のカリーニングラード、ドイツの哲学者カントの生地)で、若くして未亡人になった母親は5歳のハインリヒ少年を連れて、戦争さなかの1944年夏、父祖の地を離れ、南ドイツに引揚げて来た。バイエルン州のウルムなどで育ったヴィンクラー教授の代表的な著作、『ドイツ最初の民主的なワイマール共和国の歴史』(1993年)や『ドイツの西側への長い道のり』(2000)は、学者だけではなく、一般の大勢の人に読まれたという。「ドイツの西側への長い道のり」はこの日の講演の主なテーマでもあったが、そこには教授自身の体験が反映されているようにも思われる。

ヴィンクラー教授は1962年以来の社会民主党の党員でもある。そのヴィンクラー教授が今回の記念式典の講演者に選ばれたのは、保守党の議員たちの間でも尊敬されている歴史学者だからなどと新聞には書かれている。

 きょう70周年を迎える日、1945年5月8日ほど、ドイツの歴史上、深い意味を持つエポック・メイキングな日付はない。この日は、ヨーロッパでの第二次世界大戦が終わった日であり、この戦争を引き起こしたナチス・ドイツ政権の崩壊を記録する日であるが、同時に4分の3世紀前にビスマルクによって建設されたドイツ帝国の没落を意味する日でもある。12年間にわたって荒れ狂ったナチ支配の国家が例のないほどの地獄絵図とともに滅亡したときには、ドイツ人が再び統一国家を形成することができるかどうか、定かではなかった。

 敗戦40周年の歴史的な演説の中でフォン・ヴァイツゼッカー大統領は、1945年5月8日をナチの支配体制から解放された日と位置づけ、この日をヒンデンブルク大統領がヒトラーを宰相に任命した1933年1月30日と切り離して考えることはできないと指摘した。同大統領はまた5月8日を、「ドイツの歴史上の間違った道」が終わりを告げた日であり、同時により良い未来への希望の芽が生まれた日であるとも語った。

 ヴァイツゼッカー大統領の言う「ドイツの歴史上の間違った道」は、しかし、ヒトラーが政権についた1933年に始まったのではない。第一次世界大戦の敗北の結果誕生したドイツ最初の民主国家、ワイマール共和国時代のドイツ社会のエリートたちが、西側戦勝国の民主主義的な国家の形態をドイツ的ではないと拒否したときに始まったのである。第一次世界大戦中、当時のドイツの有力な政治家やジャーナリストの多くは、強力な軍事国家の建設を目指し、1776年のアメリカ独立革命や1789年のフランス革命の自由、平等、博愛の精神や基本的人権の思想をドイツの理想とはしなかった。ワイマール共和国の失敗も、これが原因である。

 このような言葉で話し始めたヴィンクラー教授は、その長いアカデミックな講演の中で、第二次大戦後の東西ドイツの歩みを丹念に辿り、旧西ドイツが西欧的な民主主義の価値観を受け入れ、ヨーロッパ連合(EU)や 北大西洋条約機構(NATO) の一員となるまでに長い時間がかかったことを明らかにする。また、旧東ドイツが統一によって民主的な国家に組み入れられるまでには、さらに多くの年月が必要だったと述べた。『ドイツの西側への長い道のり』というわけだが、同教授のこうした歴史観に違和感を持つ連邦議会議員も少なくなく、特に旧東ドイツの社会主義統一党の流れを汲む左翼党の議員席からは、拍手が聞こえなくなった。

講演の後半は「ドイツの負の過去と今後どう向き合っていくか」が主要テーマだった。ヴィンクラー教授はナチの人種政策によるホロコーストの犠牲となったヨーロッパの600万人にのぼるユダヤ人をはじめ、シンティー・ロマの人たちや同性愛者に思いを馳せるとともに、第二次世界大戦でのナチ親衛隊(SS)やドイツ国防軍による戦争犯罪についても詳しく言及した。例えば900日にわたるレニングラード(現在のザンクト・ペテルスブルク)包囲作戦で、少なくとも80万人が死亡したと見られることや570万人に上るソ連軍捕虜の約半数が、飢えや病気、強制労働、それに虐待などで死亡したと見られること、東ヨーロッパなど占領地での住民虐殺などについて詳細に取り上げた。その上で「ドイツ人のこうした過去の犯罪との対決は、すでに終わった問題ではなく、将来もこのような歴史に決して終止符を打つことはできない」と述べている。

ドイツ人が自らの過去に向き合わなければならないという問題に終止符を打つことは今後もできないが、現在の若いドイツ人に3世代前のドイツ人がドイツの名の下に犯した罪の責任を取ることを誰も要求しはしない。それでも、若いドイツ人も、こうした過去の歴史全体に責任ある態度で向き合う必要がある。過去と誠実に取り組むことは、現在の問題に責任ある行動をとるために必要だからである。この事はすべてのドイツ人にあてはまる。先祖が1945年以前にドイツに暮らしていた人であれ、あるいはそれ以後ドイツ人になることを決定した人であれ、これからドイツ人になろうとする人であれ、すべてのドイツ人にこうした態度が求められる。

 ヴィンクラー教授が、ドイツ人の中に、移民の背景を持つドイツ人を含めたところが耳新しい。

 最近ではドイツ各地に、こうした過去を記憶に止めるための場所や記念館などができているが、過去の罪を忘れないための運動の多くが国の法律などによるものではなく、市民の自発的な意思から生まれているのは喜ばしいことである。かつてユダヤ人が住んでいた家の前に「つまづきの石」を埋める運動や学校の生徒たちが、自分たちの住む町のナチ時代の歴史を研究する動きなどが、ますます広がっている。

 現在のヨーロッパ情勢については、ドイツ統一から7週間後の1990年11月21日に結ばれた「パリ憲章」の重要性が強調された。これはパリで開かれた欧州安全保障協力機構(OSCE)の首脳会議で調印されたもので、冷戦後のヨーロッパの新秩序の指針が示されている。「パリ宣言」には「ヨーロッパにおける対立と分断の時代の終結」と「民主主義、平和、統合の新時代の到来」がうたわれているが、2014年に国際法に違反してクリミア半島を併合したロシアは、この「パリ憲章」の決めた冷戦後のヨーロッパの新秩序に過激な形で疑問を投げかけたと、はっきり批判している。こうした非外交的な発言を、敗戦記念日の記念式典でドイツの大統領や首相がしたとしたら問題になるかもしれないが、ヴィンクラー氏は何しろ歴史家なので、許される。70周年の記念式典の講演者に歴史学者を選んだ意図はこの辺りにあると見る向きもある。ヴィンクラー教授は、我々は特にヒトラーとスターリンによる独ソ不可侵条約の犠牲となった国々に連帯を示す必要があるとも述べ、これらの国々の問題を彼らの頭越しにロシアとドイツで決定するようなことが2度とあってはならないと警告した。

大学での歴史の講義のようなヴィンクラー教授の講演は、1961年7月1日、ドイツ連邦共和国の第3代大統領に就任したハイネマン大統領(社会民主党)の次のような言葉で終わった。「世界には難しい祖国が幾つかある。その一つがドイツだ。しかし、それは我々の祖国なのだ」。これには拍手が起こった。

記念講演のあと、現在連邦参議院の議長を務めるヘッセン州のブーフィエ首相が「ヨーロッパの統一は、二つの世界大戦の地獄を経験したあとの我々の正しい解答だった。ドイツ人は平和と自由と民主主義のために貢献する義務がある」と挨拶、EUの国歌であるベートーベンの第九の「歓喜の歌」のメロディーが演奏されて、敗戦70周年記念の式典は終わった。

今年の記念式典でガウク大統領が演説をしなかったことを不審に思った人もいるようだが、ガウク大統領は今年初めから各地の記念式典に精力的に参加し、それぞれ心のこもった演説をしている。1月27日には連邦議会での「ナチの犠牲者を追悼する記念式典」で演説した。この日は、アウシュヴィッツ強制収容所がソ連赤軍によって解放された日の70周年にあたった。この日の演説では、アウシュヴィッツに収容されていたユダヤ人教師の日記を引用したり、11歳でアウシュヴィッツを生き延び、のちにアメリカに渡って人権問題専門の法律家となり、ハーグの国際司法裁判所の裁判官になったトーマス・バーゲンソール氏の例をあげたりしながら、ナチ時代の恥ずべき犯罪に対する第二次世界大戦後の東西ドイツ人の意識の変化について詳述した。ガウク大統領はこの日の演説を次のような言葉で締めくくっている。「時代とともにナチの罪に対する意識は変わり、『時代の証言者』がいなくなったあとの世代では追悼の形も変わらざるを得ないが、追悼からは責任と課題が生まれる。どのような時にも人間性を維持し、一人一人の人間の権利を守るべきことが、我々に求められている」。

5月6日、ルール工業地帯のビーレフェルト近郊にあるホルテ・シュトゥーケンブロック城での敗戦70周年記念式典では、ドイツをナチの独裁体制から解放するために戦った連合軍兵士に感謝の意を表すとともにそのために命を捧げた兵士たちに心からの敬意を表明した。この日の演説では特にドイツ軍の捕虜となった何百万というソ連軍兵士が死亡したことは、第二次世界大戦中最大の戦争犯罪の一つであると指摘し、ソ連軍捕虜の残酷な運命についてはこれまで十分にドイツ人の意識にのぼっていないと批判した。ここは大戦中大規模なソ連軍捕虜収容所があったところで、ガウク大統領は演説の後、ソ連軍捕虜の墓地に参拝し、花輪を捧げた。

ガウク大統領はまた、5月8日の連邦議会での記念式典の後、ベルリンの東、オーダー河畔のレーブスのソ連軍兵士の墓地を訪れ、花輪を捧げた。ここは戦争末期、ベルリンを目指してきたソ連軍とドイツ国防軍が死闘を繰り広げたところで、ここには約5000人のソ連軍兵士の墓地がある。ガウク大統領の墓参にはロシア大使をはじめ、かつてソ連に属していたウクライナ、ベラルーシなど7カ国の大使が同行した。現在ウクライナ紛争でいがみ合っているロシアとウクライナ両国の大使がドイツの大統領とともにソ連軍兵士の墓地を訪れたことの象徴的な意味は大きい。東ドイツ出身のガウク大統領は、戦後父親がソ連に連行され、長年収容所送りとなったという個人的な悲劇を味わっているが、ソ連軍捕虜の死に対する戦争犯罪に目を向けたり、ソ連軍兵士の功績に十分な敬意が示されていないと訴えたりする姿勢に、大統領の平和と和解への真摯な願いを感じる。この墓地でガウク大統領が高齢の元ソ連軍兵士2人と手をつないで歩いていた姿は、強く印象に残っている。

なお、メルケル首相やシュタインマイヤー外相もさまざまな記念式典に参加し、犠牲者や迷惑をかけた国々との和解に努力している。

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