ベルリン国際映画祭がとりあげたシェールガス、核惨事

永井 潤子 / 2013年3月3日

映画祭直前の国際記者会見でベルリン映画祭の最高責任者、ディーター・コスリック氏が特に現時点での重要なテーマを扱っている映画として、ハリウッドの人気俳優マット・デイモン主演の「プロミスト・ランド(約束の地)」をあげた。

マット・デイモンとシェールガス

アメリカでは既にシェールガスの採掘が大規模に実施され、“新たなエネルギー革命“などともてはやされているが、ヨーロッパでは現在、シェールガス採掘の際の技術、フラッキング(水圧粉砕)の危険性が論議を呼んでいる。この映画「約束の地」はアメリカの地方小都市での貧しい農民たちのシェールガス採掘への対応をテーマにしたもので、環境問題、エネルギー問題に関心のある私としては見逃すわけにはいかない映画だった。日本でもアメリカの“シェール革命“に乗り遅れないよう政府に進言する学者がいるが、環境や人間に与える危険性はあまり論議されていないようだ。

シェール(頁岩、けつがん)というのは、一億年以上前の植物や動物の死骸に圧力がかかって出来た泥岩の一種で、その間に閉じ込められたガスが、シェールガス、油がシェールオイルだ。この泥岩を人工的に粉砕してガスやオイルを採掘するのがフラッキングだが、その際大量の水と砂と有害な化学物質の混合物が必要とされるため、地下水が汚染されたり、水道のそばでマッチをするとポッと火がついたりするなどの影響が見られ、公害によって健康を害する住民が転居を余儀なくされるなどの被害が生じている。

「約束の地」の主人公(マット・デイモン)は、将来の出世を約束されている大規模エネルギー会社の若い社員である。彼の当面の仕事は、年上の女性同僚と協力して、地方の小都市の農民に、自分の農地のシェールガス採掘の権利をエネルギー会社に売り渡す契約を結ぶよう勧めることである。採算のあわない農地を抱える農民たちには、大企業が提示する金額が魅力であり、同じように地方の農家出身の主人公の人柄にもひかれて契約を結ぶ人が増えた。しかし、そのうちに元技術者で、今は高校の教師をする年配の市民がフラッキングによる環境破壊を指摘、反対運動を始める。そこに専属の環境団体を装った若者(ジョン・クラシンスキー)なども出現して、反対運動は次第に広がって行く。この自称、環境団体の若者は、反対運動に対する主人公の対応をチェックするため、エネルギー会社自身が送り込んだ人物だということが後で判明する。主人公が好意を抱くようになる若い女性教師が反対派に属することもあって、主人公自身、農民たちに農地の権利を売るよう勧めることに次第に疑問を感じるようになる。マット・デイモン扮する主人公は、結局大企業での出世をあきらめ、地元に残って反対派に身を投じるというのがこの映画のあらすじである。

マット・デイモンは親しい俳優のジョン・クラシンスキーとともにシナリオも書いたといい、深刻なテーマを扱いながらユーモアもあるのだが、見終わった私には物足りなさが残った。シェールガスとは何かという説明もあまりなく、映画がその危険性をはっきり強調しているわけでもないからだ。映画は主人公が女教師の家を訪ねるところで終わるが、この終わり方も、いかにもハリウッド的である。

上映後の記者会見でマット・デイモンは「シェールガスについては、説明する必要もないほどよく知られており、それに賛成か反対かは既に一人一人が意見を持っている」などと語っていたが、「アメリカではそうかもしれないけれど、ヨーロッパや日本では議論が始まったばかりではないか」と私は思った。彼はこの映画では「地域社会を大事にし、隣人同士助け合うアメリカの良き面が、地方にはまだ残っていることを示したかったのだ」とも述べていた。最初はシェールガスではなく風力発電をテーマに農民の態度を取り上げようとしたそうだが、適当な撮影場所がなく、シェールガスに変えたといういきさつがあることも明らかにしていた。そういういきさつから見ても、彼にとってシェールガスの問題そのものは、それほど重要なテーマではなかったのかもしれない。

マット・デイモンは初め監督まで自分でするつもりだったが、時間的に無理だということが分かったため、旧知の個性派監督、ガス・ヴァン・サントに監督を依頼したのだという。マット・デイモンは飾らない人柄のようで「1800万ドルの費用をかけたこの映画はアメリカでは不人気で、ヨーロッパに期待する。あるいは以前にも経験したように何年か経ってから人気が出るかもしれない」などと正直に述べていた。私自身は映画そのものには物足りなさを感じたが、ハリウッドの超人気俳優、マット・デイモンが中心になって、こうした社会的テーマの映画を作ったことに感激した。

ウラルの核惨事の50年後の人々の生活を描いた映画

もうひとつ、環境破壊のテーマで注目された映画を見た。それは「ドイツ映画展望2013」部門に参加した若いセバスチァン・メッツ監督のドキュメンタリー映画「メタモルフォーゼン(変化、変身)」である。ドイツ人の監督がつくった映画なのに、映画で使われるオリジナルな言葉はロシア語、それに英語の字幕が付けられていた。ロシア語が使われたのは、「世界で最も放射能に汚染された地域」といわれるロシアのウラル地方でほそぼそと暮らす住民へのインタビューが中心の映画だからである。

旧ソ連時代の1957年9月29日、ウラル地方チェリャビンスク州でのちに「ウラル核惨事」または「キシュテム事故(キシュテム工業団地にちなむ)」と呼ばれる原子力事故が起こった。旧ソ連の最高指導者、スターリンは原爆でアメリカに先を越されたため、第2次世界大戦が終わった後の1945年12月、ウラル南部の森のなかの広大な地域に核兵器開発のための施設をつくることを決定、1948年には原子爆弾用のプルトニウムを生産するための原子炉や使用済みの燃料からプルトニウムを取り出す再処理工場などの核兵器生産コンビナートを含む秘密都市が建設された。この秘密都市はソ連時代には暗号名で呼ばれ、地図にも載っていなかった。現在の都市名はオジョルスク。

そのプルトニウム生産コンビナートは「マヤーク」(ロシア語で灯台の意)と呼ばれた。この工場から出た高レベル放射性廃棄物の貯蔵タンクが冷却装置の故障から1957年9月29日に爆発し、放射性物質が広大な地域に拡散したのだが、当時はすべて秘密にされた。事故が起こったことが外国に秘密にされただけでなく、住民たちにも事故の性格や放射能の危険についての説明は、いっさいされなかった。のちにゴルバチョフのペレストロイカとグラスノスチ政策によってソ連当局が事故を公式に認めたのは、事故から30年近く経った1986年6月になってからだった。そのソ連の報告に基づいて「国際原子力機関」はこの事故を「レベル6」とし、「レベル7」のチェルノブイリや福島の事故に次ぐ大事故とみなされている。

しかし、ウラルの放射能事故はこれだけではなかったのだ。爆発した貯蔵タンクがつくられる以前の1949年から50年代の半ばまで、プルトニウム生産コンビナートから出た大量の液体放射性廃棄物は、テチャ川(オビ川の支流)に垂れ流されたため、テチャ川流域の住民、12万人以上が被爆し、白血病やガンで亡くなったり、先天性異常児が生まれたりした。さらに1967年には液体放射性廃棄物を投棄していた工場敷地内のカラチャイ湖(いわば廃棄物貯蔵所として利用)が旱魃で干上がり、湖底に沈殿していたストロンチウム90などの放射性廃棄物を含んだ砂や泥が風で舞い上がり、周囲に飛散し、述べ2,700平方キロが汚染され、地域住民を被爆させたという。テチャ川の下流の村々の住民たちは理由も知らされずに強制移住されたというが、上流の村やタタール人など少数民族の村は取り残されたままになった。

前置きが長くなってしまったが、ベルリン映画祭で紹介されたセバスチァン・メッツ監督のドキュメンタリー映画「メタモルフォーゼン」は、取り残された村のひとつムスリューモヴォ村を訪ね、事故から50年以上経った今もそこに暮らす村人の生活を追ったものである。映画はまず荒涼とした雪景色で始まる。白黒の映像のため一見したところ美しい冬の風景のようにも見えるが、カメラは住む人もいない家や荒れ果てた建物などを映し出して行く。メッツ監督は村の風景や大写しになった住民の顔の表情など、映像に多くを語らせ、そこにインタビューした村人の声をかぶせて、感動的な映画をつくった。

羊を飼う高齢の夫婦は事故が起こった時のこと、その事故の恐ろしい影響について淡々と報告し、「取り残された自分たちがいつ死ぬか、実験動物のように扱われていると感じる」とあきらめた口調で話す。事故が起こった時畑で働いていたが、爆発音がしてからしばらくして黒い雲のようなものが通り過ぎて行った、放射能の危険を知らされなかったので、また、いつものように畑で働いたという。

もう少し若い男性は、1957年の「核惨事」の事故の後、工場から2キロ離れたところに移住させられたが、今度はそこで、カラチャイ湖の放射性ちりを浴びたという。白血病やガンで亡くなったり、原因不明の病気で苦しんだりしている人が多いこと、村出身の若い女性たちが他の村の若者と恋愛関係になってもムスリューモヴォ村の出身ということが分かると、その関係は壊れてしまうと嘆く。この男性は直接被爆した自分たちだけでなく子や孫の世代にも恐ろしい影響が続くことをひどく恐れていた。

清らかな水が流れるテチャ川で魚を捕る男たちの姿も映し出されるが、メッツ監督が川のそばにガイガーカウンターを置くと、ものすごい勢いでガーガー鳴りだす。50年以上経った今も、そして流れる川の水は澄んでキレイでも、今なお汚染がひどいことが明確になる。最後は放射能の影響で遺伝子に異常を来したと思われる少年の姿の大写しで終わる。

メッツ監督は自分が学ぶバーデン・ヴュルテンベルク・フィルムアカデミーの補助金だけを使い、卒業制作としてこの映画を撮ったという。4週間の観光ヴィザでその間村に住み、村人と親しくなってからカメラを廻した。カメラも小型で目立たないものを使い、メッツ監督は監督、プロデューサー、カメラマンをすべて一手に引き受け、あとはロシア語の通訳の女性に一部録音を担当してもらったとか。ドイツのテレビ局から補助金を受ける道もあったが、自分のとりたいようにとるために、あえて、僅かな資金で映画を作ったという。最初から白黒のフィルムでとること、放射能汚染の数値などのデータに邪魔されない、村人の気持ちにそった映画をつくることなども決めていたということである。白黒でとろうと思ったのは、白黒の表現力がテーマにふさわしいと思ったほか、放射能汚染の問題は100年後もアクチュアルなテーマだと考えたからだという。カラーフィルムだと専門家たちは何年頃に撮影したかが分かるそうだが、白黒だとそれが分からないため、50年後も100年後も通用するアクチュアルな映画として残したいそうだ。

ゴルバチョフのグラスノスチ(情報公開)で初めて外国人が取材に来たのは、日本人5人だったそうだが、彼らは放射線防護服に身を固めて村のあちこちを測定し「ここの放射能汚染は広島の原爆の何倍にも達している」という言葉を残して去ったとか。以来外国のジャーナリストやカメラマンが大勢訪れたが、それによって自分たちの生活が良くなるというようなことは全然なかったと村人たちは若い監督に怒りをぶつけていたという。長年にわたる放射性廃棄物の垂れ流し、放射性廃棄物の貯蔵タンクの爆発、長年、高濃度の廃棄物貯蔵庫の役割を果たしていた湖の枯渇による放射性ちりの拡散など、何重もの事故による放射能汚染の実態は今でも完全には分かっていない。

先日、大きな隕石がロシアのウラル地方に落ちて大きな被害が出たという第一報を聞いて私はショックを受けた。「世界で最も放射能に汚染されている地域」には、まだ原子力施設の一部が稼働しているため、そこに隕石が落ちたとしたら地獄のようなことになると思ったからだ。幸い原子力施設に命中しなかったので、ほっとしたが、隕石が日本の原発に落ちる可能性もまったくないわけではない。それでなくても「ウラルの核惨事」のような「高レベル放射性廃棄物」の爆発という悲惨な事故が日本の青森県六ヶ所村の再処理工場で起こる可能性を指摘する学者もいる。忘れられている形の「ウラルの核惨事」の過去に日本および世界の原子力関係者は学ぶべきではないかと思った。低予算で原子力事故の危険に警告する印象深い映画をつくった30歳のメッツ監督に脱帽。

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