ベルリン・クーダム、同潤会アパートと同時代の複合建築

やま / 2012年9月9日

旧西ベルリン中心、カイザー・ヴィルヘルム記念教会の建つ広場から目抜き通りクーダムを西へ徒歩30分、えんじ色から紺に輝くレンガの流線形が目立つ建物「シャウビューネ劇場」があります。かつて映画館だったこの劇場は、表現主義の代表的建築家であるエーリッヒ・メンデルゾーンの1925~1931年の作品です。ネットで手ごろなアトリエを探していると、「クーダム、重要文化財、設計者メンデルゾーン、ワンルーム・マンション」という物件が目に入りました。シャウビューネ劇場には何度か観劇に行ったことはあるのですが、裏に当たるブロック内に、彼の設計した集合住宅があるとは意外でした。そしてこの建築の由来を調べてみると、ベルリンの歴史の流れに触れたような気がしました。

20世紀の初めSバーンと呼ばれる都市高速鉄道網が開通され、ベルリン市は急激に発展しました。その当時、増える人口に対応するように多くの集合住宅が建てられました。クーダムに面した広さ4ヘクタールの土地の地主であったモセ夫妻も、集合住宅の建設を考えていました。フェリチア・モセ夫人は住宅土地管理株式会社の経営者で、夫のハンス・ラハマン=モセは出版社を経営していました。モセ夫人の父親ルードルフ・モセはドイツの新聞界で初めて財閥を築いた人物で、ハンスはベルリーナ・ターゲブラット新聞社を義父から受け継ぎました。言論人が強大な富を築けたことは、新聞など印刷物の最盛期だった黄金の20年代を反映しています。しかしその良き時代は短く、世界恐慌の影響で経営困難に陥っていた新聞社は、1933年ナチスが政権を掌握した年、強制的同質化1)を余儀なくされました。ユダヤ系だったモセ一家はパリへ亡命、ラハマン=モセはフェリチアと離婚した後、1939年にカリフォルニアへ移住しました。ユダヤ人であるという理由で財産を没収され、名誉あるプロイセン芸術アカデミーから除名されたメンデルゾーンは、ナチスの危険を早くから悟り、既に1933年にイギリスへ亡命しています。この複合建築が完成してから、わずか2年後でした。

都市計画
初めにこのブロック全体の集合住宅建築を依頼されたのはユルゲン・バッハマンでした。(彼はベルリンに多くの教会を建てていて、ベルリン自由大学の近くにある音響のすばらしい教会も彼の作品です)。なぜメンデルゾーンが設計を受注することになったのか、その経緯は分かりませんが、1921~1923年に彼はモセ新聞社のビルの改築と増築にあたっています。そこで施主の信頼を得たのでしょう。表現主義の代表作とされる、ベルリン近辺ポツダムに建つアインシュタイン塔(1921年)を設計したメンデルゾーンは、その当時、話題の建築家でした。このクーダムのプロジェクトは、アメリカの融資を受けて実現されることになっていたので、近代性と象徴性を持つメンデルゾーンに依頼することによって、より多くの資金を集めることができると期待されました。融資者誘致のために、このブロックに住宅だけではなく文化施設を加えることが決まり、メンデルゾーンは複合建築の設計を始めました。彼は瀟洒なクーダムに面して公共的文化施設を設けて、歩行者の注目を集め、ブロック内の商店街に誘導しようと考えました。細長いブロックは、公共空間と住宅やテニスコートのあるプライベートな空間にバランス良く分けられ、その2つの境にホテルが計画されました。

公共施設
映画館「ウニヴェルズム」はウーファー映画会社(UFA) 専用のロードショー映画館でした。館内には客席が1763席あり、無声映画には欠かせないオーケストラボックスが設けられ、視界の邪魔にならないように、この部分の床は下げられるようになっていました。ウーファーと言えば、忘れがたきマレーネ・ディートリッヒ出演の『嘆きの天使』や、『メトロポリス』、『吸血鬼ノスフェラトウ』などで有名ですが、1921年に民営化され、毎年600本もの作品を送り出すドイツ映画界を代表する会社でした。1)第一次世界大戦に敗れたドイツの国民は経済的に厳しい生活を送っていました。憂鬱な日々を忘れることができ、夢の場を与えてくれたのは映画館だけでした。当時の帝国社会福祉省の見積もりによると、毎晩約350万人の観客が映画館を訪れていたそうです。単調なボックスではなく、新しいデザインの映画館が都市に次々と建設されました。メンデルゾーンの「ウニヴェルズム」はこの時代の映画館建築の後期の傑作とされています。3観客席の自然排気のために設置された壁状の換気システムが高くそびえ立っています。大形のロードショー看板がこの表面に掲げられ、多くの客を映画館に引きつけたことと思われます。
クーダムに面した2つ目の建物は寄せ劇場で、政治や文化を風刺する話芸を披露していました。創立者であり、団長でもあった、パウル・モルガンとクルト・ロビチェック両人は、従来のユダヤ人のユーモア、エロチックなフランス=ウィーン風の喜歌劇、アクロバット的なアメリカン・ラインダンスなどと、辛らつな政治風刺文芸をうまく混ぜることに成功したと言われています。800~900人の観客がテーブルを囲んで座るようになっていた、ベルリン初の喫煙劇場です。舞台と観客席の防火のために鉄のカーテンが設けられるなど、その当時最新の劇場技術が取り入れられていました。一階は店舗やカフェが並び、特にカフェ・レオンは人気のあるダンスホールで、『エーミールと探偵たち』で児童文学作家として世界的に有名になったエーリッヒ・ケストナーの行きつけだったそうです。1933年以降、ユダヤ人害が始まり、職を失った作家や芸術家にとっては、この劇場が唯一の文化的な場でした。ユダヤ系のスタッフが亡命した後、演目が変わり、政治に批判的な風刺は一切しないという条件で劇場は戦争末期まで残りました。

公共空間とプライベートな空間に分ける建物
ロードショーを訪れる観客のためにホテルが計画されました。しかし世界恐慌のためホテル建設はストップされ、その代わりに融資者にとってリスクの少ない小面積の賃貸住宅が建つことになりました。ロードショーに行くために着飾ったホテル客(或いは映画スター)が悪天候でも楽に映画館に入れるように考慮された両建物をつなげる部分が今でも残り、当初の意向が読み取れます。

集合住宅建築
幅45メートル、7階建ての“半ホテル”集合住宅の下をくぐると、静かな住宅範囲が始まります。前庭やポプラ並木などの緑が多く、テニスコートもある住民のいこいの空間でした。街路に面して、バッハマンとメンデルゾーン設計の集合住宅が混在していました。1室しかない単身者向けの住宅もあれば、女中部屋のある邸宅もありました。多様な人々が都市でコンパクトな生活ができるように配慮されました。広さや入居対象者は様々ですが、どの建物もセントラルヒーティング、温水、近代的な浴室、エレベーターなど最新の設備が取り付けられていました。中庭が狭く採光の悪いブロックの多かったこの付近ですが、都市は「太陽・緑・空間」を持つべきであると主張した1933年の「アテネ憲章」4が発表された直前に実現された都市計画でした。

若々しい“時代物”
私のアトリエがこのブロックに移ったと同時に、外壁のリノベーションが始まりました。古くなった外壁の上塗りを機械で取り壊す作業で、騒音と埃の毎日でした。壁の構造を見ると、世界恐慌でかなり建設コストを節約していた部分がありました。リノベーションの工事費用は区分所有者が共同で負担し、市の文化財保護課が参加して討論の結果、適した色と上塗り材が決まりました。4ヶ月経った今、部分的に工事が終わり、やっと窓を開け室内に風を通すことができるようになりました。たいした苦情が出ることもなく工事が進んだのは、住宅が若返るのを入居者が待っていたからでしょう。歴史ある建物をより長く、大切に使っていく例はここだけではありません。ベルリンの住民の間では歴史ある“時代物”に人気があります。単に昔の家がいいというノスタルジックな気持ちだけではありません。環境負荷の少ない建材、天井の高さ(3.5mはまれではない)、均整の取れた大きな二重窓、広々とした部屋などが理由として挙げられます。間取りや部屋の利用の変更ができて、入居者にとっては、“私の住まい”が創り易いからです。土地の価値が物件よりもはるかに高いという事もなく、“取り壊して新築”は採算が取れないという簡単な理由もありますが、歴史ある建物を保つことは環境負荷が低く、それが環境良化につながるのではと思います。

私のアトリエのある棟には約130戸の住居があり、毎年5~6戸の入居者入れ替わりがあるそうです。最近、工務店を経営するノヴァックさんと知り合い になりましたが、彼は入居者が入れ替わるたびに改装、改築作業をしています。彼は、この建物のことなら“我がズボンのポケット”と同様、良く知っているそうです。
所有者のなかには既存屋根にソーラーパネルを設置しようという提案もあり、この建物はいつまでもその時代の最先端を行こうとするようです。

1) これはGleichschaltungと言われ、強制的同質化あるいは強制的同一化と訳されています。ナチスが政権を掌握したあと、多様な意見を認めないという考えのもと、厳しい言論統制を開始しました。
2) wiki
3)この映画館についての面白い動画、http://www.youtube.com/watch?v=5nOf2EUxprs
4)1933年に開催された近代建築国際会議CIAM)で採択された都市計画及び建築に関する理念、wiki

エーリッヒ・メンデルゾーン、Erich Mendelsohn
フェリチア・モセ、Felicia Mosse
ハンス・ラハマン=モセ、Hans Lachmann- Mosse
ルードルフ・モセ、Rudolf Mosse
ユルゲン・バッハマン、Jürgen Bachmann
ウニヴェルズム、Universum
寄せ劇場の名前はKabarett der Komiker
パウル・モルガン、Paul Morgan
クルト・ロビチェック、Kurt Robitschek
エーリッヒ・ケストナー、Erich Kästner

*wiki、現在、戦災で消失した部分がある

 

 

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