1周年を迎えたmidori1kwh.de

じゅん / 2012年8月26日

長年ベルリンに暮らす“6人の魔女たち“が、日本に住む人たちのためにドイツの脱原発のプロセスや再生可能エネルギーについての情報を伝える日本語のサイトを立ち上げたのは、去年の8月15日だった。福島原発の事故による放射能の危険について、日独のマスメディアの報道に大きな違いがあったこと、また、日本に住む日本人とドイツに暮らす私たちの間の原 発に対する意識に大きな温度差があったことなどから、自分たちもドイツの多彩な情報を日本の人たちに伝えたいと願ってのことだった。実際に被害を受けた人 たちはなるべく被害を過小評価したいという心理が働くものだが、私たちは遠くに離れているからこそ、過酷な原発事故の現実を直視することができるのではな いか、との思いもあった。

第2次世界大戦の敗戦の日に私たちのサイトをスタートさせたのは、3月11日の東日本大震災、特に福島第1原発での複数事故を日本の“第2の敗戦“ に匹敵すると深刻に受け止めたためである。アメリカによる広島、長崎への原爆投下は戦争中の敵から受けた被害だったが、原発の事故は自分たちの手で起したものである。時代や政治状況は異なっても「神話」を信じて国民をあげて思考停止に陥った事情は、当時と「原発事故前」となんと似ていることだろう。「神国日本、無敵の日本」を信じて国民をあげて無謀な戦争に突き進んだ当時の日本人と「原発安全神話」を信じてそれ以上考えようとしなかった現代の私たちの精神構造は、少しも変わってはいないのではないか。

当時同様、「権力を握ってきたエリート男性たちが日本をダメにした」という印象は否めないが、映画監督伊丹万作が敗戦後の国民に対して警鐘を鳴らした「だまされることも罪」という言葉が最近再び注目されているという。朝日新聞国際衛星版2012年8月14日の記事によると、伊丹万作は1946年8月に書いた文章「戦争責任者の問題」のなかで次のように論じている。「さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。(略)だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決して威張っていいこととは、されていないのである。(略)「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである」。(2010年、ちくま学芸文庫「伊丹万作エッセイ集」から抜粋したが、全文はここでも読める)

さて、電力問題やエネルギー問題の専門家ではない私たちがサイトに原稿を書くにあたって気をつけたことは、ドイツの脱原発への努力についてプラス面だけではなく問題点も含めてできるだけ客観的に伝えるよう努力したこと、そして日本の人たちを勇気づけるような再生可能エネルギーの具体的な情報を伝えるよう務めたことなどだった。福島原発の事故の深刻さに打ちのめされていた当時の私が勇気づけられたのは、事故直後に早々とベルリンの新聞に載った「日本には豊かな地熱があるではないか。日本の地熱の潜在能力は原発20基分に相当する」というドイツ人記者の詳しい記事だった。こうしたポジティブな、希望が持てる情報こそ3.11以後の日本人には必要だと私たちは痛感したのだった。

そうした思いが実際の記事に十分反映されたかというとはなはだ心もとないが、その一方、事故から1年半近く経った現在までの日本政府の対応には大きな怒りと不満を覚える。曲がりなりにも脱原発の方針を打ち出した菅直人首相が各方面から批判されて辞任した後、野田政権は再稼働のみに力を入れ、将来のエネルギー問題をどう考えて行くのかといった根本的な問題について具体的で明確な方針を打ち出していない。太陽光や風力、あるいは地熱や小水力発電などの再生可能なエネルギーをどう利用していくか、あるいは国を挙げての省エネの努力など、国の総合的エネルギー政策の中・長期的展望を発表することは、あれだけの事故に遭った、そして現在も原発の危機が収束したとはいえない状態にある国の首相にとっては、もっとも重要で緊急を要する課題だと思うのだが。野田政権が討論型世論調査にあたって示した2030年の原発割合について「0%」「15%」「20—25%」の3つの選択肢のうち、政府の予想に反して「0%」がもっとも多かったということだが、単なる数字の選択肢を示す以前に、そこにいたる脱原発への具体的な方法が示されるべきだったと思う。それでこそ国民をあげての議論が可能だが、3つの数字の選択肢だけでは議論することもできない。政府が脱原発の大枠と段階的なプロセスを示せば、民間企業もその目標に向かってそれぞれ技術を競い合い、社会も国民もそれぞれの立場でエネルギー転換への努力をすることができる筈である。

だいぶ前のことだが福島の女性たちが官邸に訴えに行った様子をyoutubeで見た。「子供を連れて福島の外へ出たいが、経済的に不可能、汚染された地域で生きていくしかないが、子供が心配」「震災以前、有機農業に全力を挙げてきたが、原発でそのすべてを失ってしまった」「政治家たちは福島へ視察にも来ません。来れば、脱原発以外に道がないことが理解できる筈です。私たちは原発事故による被害を受けて、社会を根本的なところから変える以外に日本の未来はないことを学んでしまったのです」「私たちのこの痛切な気持を総理にどうかその通りお伝えください」怒りを込めて、あるいは涙ながらに訴える女性たちの声を黙って聞いていた役人(男性)の言葉に、私はのけぞってしまった。「私だって総理には直接会えません」。「大変な被害を受けた福島の人たち、特に子供を産み育てる女性たちの声が直接政治家に届くシステムがない!これで民主国家と言えるのだろうか?」と、この時ばかりは私もむなしさに襲われてしまった。ドイツの政治家には「国民によって選ばれている」という意識が高い。従って国民の意向に非常に敏感にならざるを得ない。メルケル首相も脱原発を望む国民の声を無視できなかったから、はやばやと段階的な脱原発の決定をしたのだ。それが本来の議会制民主主義というものだろう。

脱原発、エネルギー転換を実現させるためには、国民挙げての長期にわたる努力が必要となる。私たちも微力ながら、日本の人たちが考えるための情報をドイツから伝える努力を今後も続けるが、「エネルギー革命」を実現させるためには、社会のあり方も変わって来ざるをえない。私たち“6人の魔女たち“の原稿にもそういう面が反映し、これからはエネルギー問題だけではなく、市民社会のあり方、女性の権利や基本的人権をめぐる問題などをテーマにする原稿も増えるのではないかという予感が私にはする。

これからも私たちの原稿に対するみなさまのご感想、ご批判をどんどんお寄せくださるよう、お願いしたい。

 

 

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