ベルリン映画祭で見た原発映画

あきこ / 2012年2月23日

今年のベルリン映画祭が終わった。多くの映画を見て、「今年の映画祭を貫く赤い糸は変革」と言ったディレクターの言葉を実感しているところである。「アラブの春」をとらえた映画や、オキュパイ・ウォールストリート運動の根底にある不公平な社会への怒りをテーマとする映画が数多く上映されたが、原発に関連する映画が日本からのドキュメンタリーも含めて上映された。舩橋監督の「Nuclear Nation」については別の記事で詳しく書いたので、ここではフォルカー・ザッテル監督の「アンダー・コントロール」と「シルクウッド」を取り上げる。

前年のベルリン映画祭で上映された作品が、次の年にも上映されるというのは異例のことだが、「アンダー・コントロール」は2年連続の上映となった。「フクシマ以後、この映画は全く別の意味を持つようになった」という上映に先立つ映画紹介で、この異例の上映の理由が明らかになった。客席には、他の映画上映の時とは違った緊張感が漂っていた。この映画は現在日本でも公開中なので、ネタばらしをするつもりはないが映画を見た感想を記しておきたい。

映画開始と同時に映し出される燃料棒は、みごとなほど光り輝いている。ドイツ各地の原子力発電所、中央制御室、さらに低・中濃度放射性廃棄物を保管するモアスレーベン貯蔵所の内部など、恐らくこれほど原発の現場を描いた作品はないだろう。そして映像の美しさには圧倒されるほどである。原発内で働く作業員にもカメラが向けられ、被曝線量が計測されるシーンなどは、今、福島で作業に従事している作業員たちが置かれている状況がどんなものであるかを考えさせてくれる。映像が美しければ美しいほど、そして人間によるミスを防ぐためにいかに技術管理がなされているかを語れば語るほど、原子力発電というものがいかに脆弱なものであるかが示される。まさに「フクシマ以後、この映画は全く別の意味を持つようになった」のだ。そして、最後のシーンを見て、心臓が張り裂けるような恐怖を感じた。ぜひ多くの人に見てもらいたい映画である。

原発をテーマにしたもう一つの映画は、「シルクウッド」(1983年、監督マイク・ニコルズ)である。映画人としての業績を称えて送られる特別金熊賞を受賞したメリル・ストリープが主人公カレン・シルクウッドを演じている。ハンフォード原子力発電所については、鎌仲ひとみ監督の「ヒバクシャ ~ 世界の終わりに」で原発地域周辺住民の様子が詳しく描かれているが、シルクウッドは、このハンフォード原子力発電所で使われる燃料棒のプルトニウムペレットを製造するプラントで働く化学技術者だった。やがて彼女は工場内で労働者たちが十分な安全管理がされない状態で働いていることに対して声をあげるようになる。ある日彼女が工場を出ようとして線量チェックをしたところ、汚染が判明し、激しい除染対策を受けさせられる。さらに自宅待機の処分を受け、職場の異動を通告される。新しい部署でシルクウッドは、プルトニウムペレットの製造管理が十分でなく、欠陥品が納品されていることを知る。証拠物件を集めてニューヨーク・タイムズと労働組合本部に届けようとオクラホマ・シティに向かって走っていたところ、自動車事故で亡くなる。映画では、後ろから来る車が意図的に追突したかのように見えるが、事故なのか、意図的なものなのかは不明である。

この映画は、アメリカの原子力産業のスキャンダルを暴こうとした一人の女性を、彼女のパートナーや家をシェアしている友達との日常生活や元夫と子どもたちとの交流で見せる姿と、製造工場で同僚から冷たい視線を浴びながら欠陥品であることを証明する書類を必死で集める姿を対比させて描いている。原子力産業を担う末端の会社で、危険とリスクを知ってしまった一人の女性の無力さが胸にしみる映画であった。シルクウッドが亡くなったのは1974年11月13日、28歳の若さであった。

 

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